私たちがGoogle八分に驚くのはなぜか?

モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 村八分、google八分、アカウンタビリティ(≒説明責任)から


で、私たち(少なくとも私)がgoogle八分ということに驚くのはなぜかというと、googleは遍在することによってgoogleたりうるから。すごくラフでおかしな表現になったけど、すべてを拾いすべてを示す者こそがgoogleでその行為によってgoogleが定義づけられている、にもかかわらず、そのgoogleに拾われない、無視される、というのは異常事態なわけだ。

この指摘に「あっ」と思ってしまったんですが、これは、私たちが、ポストモダンの階層構造(関連記事)で言う、「単一のアーキテクチャの層」として、Googleをとらえているからではないでしょうか。

つまり、「すべてを拾いすべてを示す」存在を、受け入れる(受け入れたい?)傾向が私たちには最初から備わっていて、それがあるから、経験的な証拠も無しに簡単にGoogleが無条件に遍在するものであると思いこんでしまうわけです。

そう考えると、東浩紀さんのこの見取り図は、時代の意識をうまく反映しているように思えてきます。

つまり、議論の対象としようとすると、企業としてのGoogleとか、IT屋さんのヒーローとしてのGoogleとか、Googleの技術とか、あるいは、新しい資本家階級としてのGoogleとか、上位の「コミュニティ層」の言葉になってしまって、うまく「アーキテクチャ層」の議論ができない。

「コミュニティ層」の議論になってしまうと、基本的には「○○板の住人は住人同士で勝手にやってれば」という受け取られ方をしてしまいます。だから、「私はその板の住人じゃないから」と簡単に議論から降りて傍観者に回られてしまう。でも、実際には、みんなその層の上に乗っかっていて、その層を共有しているんだということを、いろいろな形で訴えていくわけですが、それは、まるで各板を巡回しながら、その板のスタイル、興味に合わせた言い方に切り替えているようなものです。それぞれの板での興味を引いても、それを全部統合した議論に進展することはなくて、単にたくさんの板で個別の議論が進んでいるだけで、何か違うような気がしてました。

その一方で、多くの人が「Google八分」にビックリすることも事実であって、そのギャップはなんだろうと思っていました。

それが、左近さんの文章と東浩紀さんの図を合わせて、少しわかったような気がします。「アーキテクチャ層」を議論することが困難なんですね。