環境管理型権力 VS コミュニティ

いやあ、実にネットのえらい人を怒らせるのは難しい

自分でもオープンソースに引きこもる蜜蜂は逆切れ気味だなあと思ってたけど、腹が立ったから腹が立ったように書くのが真摯な態度だと思ってそのままPOSTした。腹が立っているのはSpiegelさんに対してではなく、「消費者」という言葉とその背後にある考え方だということは自覚してたけど、言いわけ的にそういうことを書くのは見苦しいと思うので、そのままにした。だから、DACさんがSpiegelさんのと俺のを並べてくれたことさえも意外であった。対等に並立で比較するほどレベルがそろってないように思っていた。

それにもかかわらず、Spiegelさんはぬりえの話で実に淡々とそのあたりをガイドしてくれた。おかげで、東浩紀さんという重要な人を知ることができた。非常にありがたいことである。

速攻でネットにある公開原稿たちを勉強して、いきなり批判しようと思う。馬鹿であるが、馬鹿であることが俺の持ち味なので仕方ない。後ほど、じっくり著作を読んで自分の馬鹿さ加減を確認するためだ。

まず、この人の基本的な問題意識には非常に共感できる。毎日新聞のインタビューで、次のような話をしている。


引きこもりの人と話をして感じたのは、彼らは動物化した社会になじめないのだということ。僕の研究テーマの「オタク」の場合、ある種の記号を身にまとうことで、動物化した消費社会に上手に入っていける。しかし「引きこもり」の人はできない。「生きる意味」を考えてしまう。だから、「引きこもり」の人たちは、実は動物化した今の社会で最も人間的な存在だとも言える。私たちの社会はもう、かつて文学が描いてきたような人間的な生を、「引きこもり」という形でしか許容できない。

「生きる意味」という言葉だけがちょっと違うと思うが、「動物化した今の社会になじめない」とは俺のことだ。こんなものを読む前から「オープンソースに引きこもる」と宣言している。かなり当てられているがちょっと違う。直球かと思うとフォークボールが来たようなもので、これがイラダチの原因であるらしい。本当は、「生きる意味」の所を攻撃したいが、ここを攻めるとデリダとかラカンとか出てきそうで嫌だ。俺は長い文節が嫌いなのだ。

そこで、見えるもの/見えないものの対立軸では、もはや世界は見えなくなっているという所を攻める。


しかし、データベース化が抱える問題は、決して視覚的隠喩では捉えられない。(中略)とりあえずすべてを記録して、あとで必要な部分だけ検索すればいい、という形になる。このようなシステムを使った監視体制をどのように制限していくべきか、私たちはまだほとんどアイデアをもっていません。

アイディアはある。技術にコミュニティをはりつければよい

もうひとつ、安全と寛容 どちらを選ぶのか もやっつけてしまう。


私たちはいま、過剰なセキュリティにしがみつくことでしか安心感を得られなくなっている。その現状を今後いかにして「豊かさ」や「優しさ」へ開いていくのか。私たちひとりひとりの叡智が試されている。

その答えもある。技術にコミュニティをはりつければよい。はい、批判終わり。

俺もオープンソースをある程度理解するまでは、ほぼこの人と同じことを考えていたと思う。ただ、俺はこの人のように頭がよくなくて長い文節を使えない人間だから、考えたことをなかなか言葉にできなかった。だから、黙っていた。最近、たくさんものを書いているのは、短かい文節で書ける答が見つかったからである。

キーはまたもや富豪的である。モノを考える人間が増えている。論壇を見てるとわからないが、ネットを見ていればわかる。「倫理学がない」と言えば、倫理学が届くし、今回のように「哲学がほしい」と言えば、哲学が配達されてくる。

確かに、東浩紀氏は現代という状況から一切逃げることなく、真正面から向きあっていると思う。この人の仕事はカーネルのようなものになるだろう。他にそういう人はあまりいないので、「俺が考えなければ誰が」と思うだろう。

だが、カーネルを作る奴はそうはいないが、回りのツールを作る奴はくさるほどいる。ありとあらゆる技術に哲学者をひとりづつ配置すればよい。個別の技術を存在論的に理解して、チェックし説明し方向づける。

哲学者が希少な資源であったら、プライオリティの高い問題に専念させて他は切り捨てるしかない。たくさんいれば、lsとかrmについて哲学してもまだあまる。もちろん、暗号やデータベースの持つ権力的なふるまいについても技術的な詳細にもとづいて哲学的な意味を考える余裕はあるのだ。