グーグルランクと課題図書

これは、Googleの現代IT産業における意義を50代、60代の人に伝えると同様な読者を想定して、逆にインターネットの本質的な問題点を明確に述べてみようという意図で書いた文章です。

夏休みの課題図書

小学校の夏休みの宿題として、昔から読書感想文があります。そのために、課題図書が設定されています。

そこに選定された本は、子供たちが半ば強制的に読むことになります。多くの子供たちに長期的な影響を及ぼすものですから、さまざまな観点から、子供たちへの影響を考慮して、慎重に選ぶ必要があると思います。

そして、出版社の側から見ると、自社の本が課題図書に選ばれるということは、営業上非常に有利です。何の宣伝もしなくても、かなりの数の子供があれを買うわけですから、選定された時点で安定した収入を約束されたようなものです。

ですから、課題図書の選定過程は、次のような点で正当性を保証しなくてはなりません。

  • 出版社の意向でゆがめられていないか
  • 特定の思想信条に偏ったものになっていないか
  • 教育的な観点から良質の図書を本当に選んでいるか

もしこれを恣意的に行なった場合、以下のような悪影響が考えられます。

  • 特定の出版社が不当に利益を得る
  • 子供たちに特定の思想信条が植えつけられる
  • 読書というものが嫌いになって、学習意欲をそぐ

少しおおげさに言えば、課題図書の選定過程の選定過程は、ひとつの「権力」として見て、我々がチェックする必要があるものです。どういう人たちが、どのような権威や実績を背景に選定しているか、その正当性が外部に公開されて監視を受けなければなりません。

これと同じような「権力」がインターネットの中にもあるのです。

権力としてのグーグルランク

インターネットで「検索」という処理があります。これは、インターネットの中に無数にあるページの中で、特定の単語を含むページを抜き出して表示するサービスです。そのためのデータを収集して、該当するページを抜き出す処理は、完全に機械的なもので、効率だけが問題になる完全に技術的な課題です。

しかし、大半の場合、単語によって抜き出しても非常に多くのページが残りますから、それをどういう順序で表示するかが問題になります。多くの利用者はそのリストの先頭の数個かせいぜい数十個しか見ません。従って、このリストの中での順位によって、あるページが一般の利用者の目に触れる機会が大きく左右されます。

これは、課題図書と非常によく似た性質の問題ですが、はるかに影響力が大きい「権力」と言えるのではないでしょうか。このページの順位を恣意的に左右することができたら、次のようなことが可能になります。

  • 特定の商品の販売ページを多く表示して、不当に利益を得る
  • 特定の思想信条に関わるページを排除する
  • 良質な情報の順位を下げることで、知識の流通を妨げる

インターネットの検索処理は、グーグルというアメリカの新興企業が行なっています。ここは、従来より飛躍的に良質の検索結果を出す方式を開発して、それで急成長しました。その原動力となった技術は、「グーグルランク」と呼ばれるひとつの評価値で全てのページを評価して、その数値の高いものから表示するというものです。

それ以前は、人手によって良質なページを抜き出す「ディレクトリ型」と呼ばれるサービスが主流でしたが、人手が介在する方法では、インターネット全体の急成長に追いつけず、機械的にコンピュータに評価値を計算させるグーグルの方式の方が利用者に評価され、グーグルは急成長して圧倒的なシェアを占めています。

相互的な代議制民主主義としてのグーグルランク

それでは、アメリカの特定の私企業が、世界中のありとあらゆるページを勝手に評価してそのような重要な評価値を与えるということが、なぜ簡単に受け入れられたのかと言いますと、基本的にこれが民主主義だからです。

グーグルランクの計算は、直感的に言うと「多くの人の支持するページに高い評価を与える」というものです。つまり、インターネットの中の「リンク」という行為を一種の投票として見て、「リンク」を多数集めたページ、つまり多くの人に言及されるページは価値が高いという判断をするものです。

ただし、これが全てのページに平等な一票を与えるわけでなくて、ページごとに一票の価値が大きく違うのです。つまらない個人の日記からリンクされるのと、ニューヨークタイムズのような信頼ある報道機関からリンクされるのでは全然意味が違います。ですから、同じ一票でも「偉い」人の一票の方がはるかに意味が大きい。

少数の重要なページからリンクされることと、多数の一般人のページからリンクされることが同等の価値を持つことになります。

では、その重要度はどのように決められるのか?

実は、そこがグーグルの技術の最も重要な所ですが、重要度はグーグルランクで決まります。つまり、「重要なページから多数リンクされるページ」がグーグルランクが高くなって、他人のランクを決める決定権を多く持つことになります。

これは、一種の代議制民主主義です。つまり、私があるページにリンクしたら、それは自分の一票をその人に託したことになります。その人が別のページにリンクしたら、その人は私から託された権利を自分の判断で行使したことになります。誰もがそのような意味で権利を託し託されて、その総体がグーグルランクを決定するわけです。代議士と有権者が明確に分かれてない、相互的な代議制民主主義なのです。

グーグルの開発者は、この制度をひとつの数式として集約することに成功し、それを実行するコンピュータプログラムを開発しました。それがグーグルの製品です。http://www.google.co.jp/ から誰でもそのプログラムを使うことができます。また、多くのパソコンの「検索」ボタンは、多数の企業のプログラムを経由して、背後でグーグルのこの仕組みを利用しています。

グーグルランクの正当性

そして、この仕組みは多くの利用者から歓迎されました。実際に、グーグルで検索すると他のサービスで検索するより、ずっとよいページが上位に表示されたからです。グーグルランクという評価値は、ページの質を示すものとして高い信頼性を持つということが、定説になりました。

これは、一方ではグーグルの技術が評価されたということですが、別の見方をすると、「相互的な代議制民主主義」とでも言うべき、ひとつの政治制度をグーグル社が提唱して、それが世界中のインターネットユーザに受け入れられたということです。

しかし忘れてはならないのは、理想的に運営される課題図書の選定過程と同じく、民主的な制度を基盤としてはいるが、ひとつの権力であるということです。

私は、この権力が恣意的に用いられたらどうなるか考えて、Google八分の刑という文章を書いたことがあります。この文章は、全くの思考実験として書いたのですが、それからしばらくして実際にそれに近いことが起きてしまいました。つまり、特定の企業からの要望(抗議?)で、グーグル社がその企業を批判するページを自社の検索結果から出なくしたというものです。明らかに通常のグーグルランクの計算とそれに基づく結果表示とは違う、特定のページを狙った例外的な処理をグーグル社が行なったということです。

この事件を、権力として読みとくと、グーグルが提唱して受けいれらた「相互的な代議制民主主義」をグーグル自身が歪めて、それが利用者の批判を受けた、ということになります。

従って、ここにあらわれている問題は見かけより複雑です。

  • 「相互的な代議制民主主義」の破壊や歪曲が悪であると誰が何の権限で批判できるのか
  • 「相互的な代議制民主主義」が理想的であると、誰がいつどのような権利によって承認したのか
  • 「相互的な代議制民主主義」の改良は、どのような合意で進めるべきか

法的には、グーグルランクとは、グーグル社の所有するプログラムに埋めこまれた論理ですから、グーグル社の私有財産です。明示的にそれを禁止する法規が無い限り、それをグーグル社がどう改良しどう運用しようが、企業内部の意思決定であるように思えます。

もちろん、公害のように明らかに社会に外を及ぼすものは、法的、倫理的に制限されます。しかし、グーグルランクの改良(改悪)や例外措置は、それほど明確ではありません。

  • 核爆弾の製造方法を示すページを排除する
  • ネオナチを支持するページを排除する
  • 進化論の教育に反対するページを排除する
  • 体制転覆を含む極端なアナーキズムを呼びかけるページを排除する
  • 某大統領の馬鹿な発言を集めたページを排除する

このようないろいろな「害悪」の「排除」について、全ての人が一致するとは思えません。また、「排除する」と言っても、一律に結果から取り去るばかりでなく、もっと微妙な方法も考えられます。私が考えた「ペナルティランク」のように、「害悪」があっても多くの支持を受けたら表示される、「害悪」があって支持がなければ削除される、というような形で実現されたらどうなるか。

もっと根本的なことを言えば、私は、グーグルランクという計算方法を「かなり理想に近い相互的な代議制民主主義」として読み取りましたが、これが唯一可能な解釈ではありません。実際に、一票の格差がある所には、別の解釈も成り立つと私も思います。極端なことを考えると「グーグルランクという計算は、許されないほどの悪辣非道で残虐な独裁政治である」という解釈をする人もいるかもしれません。その人と私が討論したとして、それはプログラムに関する議論なのか、政治に関する議論なのか、哲学に関する議論なのか。

つまり、この問題には法的な議論が必要なのかもしれませんが、それ以前の、倫理的思想的哲学的な課題として、グーグル社、あるいは、インターネットというものをどうとらえたらよいのか、その点が空白なのだと思います。

問題は拡大する

そして、この「グーグルランクの政治哲学」という問題は、ほんの序の口です。インターネットの中には、さまざまな権力があります。そして、ネットビジネスは構造的に「ひとり勝ち」の傾向を強く持ちます。

グーグル社は、「検索」という市場でトップに立ちましたが、その基盤をもとに、メール等の他の市場に乗り出す構えを見せています。おそらく、それはグーグルランクのような評価値や序列を機械的に作り出し、それをもとに我々に飛躍的な利便性を提供するものです。使う側からは便利なサービスですが、課題図書やグーグルランクと同様、利権の温床でもあるし、特定の思想や人を排除することができる権力でもあります。

現在の所、多くの勝ち組ベンチャー企業は、政治力から最も遠い位置にいて、技術やアイディアで市場に受け入れられることを第一としています。非常にフェアなプレーヤーで、むしろ社会的責任を意識した理想的な企業が多いと思います。しかしアメリカ政府は、間違いなくこのような企業を保護育成して、国際的なパワーポリティクスの道具として使うことを意図しているでしょう。

そして、私のようにインターネットに近い所を職業としている者には、すでにこれは実感を持った切実な問題です。そのような感覚は、現在では特殊なもので一部の人にしか共有されないかもしれませんが、現在、経済を中心に我々の生活や社会全体がインターネットへの依存度を深めています。

私は、10年前に会社でインターネットへの対応を訴えたことがありますが、その時は、大半がプログラマーである技術系の会社においても「インターネット?何それ?」という反応が多くありました。そして大半の人が、「技術者以外がそんな面倒なものを使うわけがない」と言っていました。このような急速な技術の普及は、世界史的に我々が全く経験したことのないものです。そして、それは過去10年より明らかに進歩の速度を速めています。

ですから、このような問題は、多くの人の予想を上回る速度でこれからますます拡大していくと思います。

思想哲学が実体化しビジネスや政治の課題となる

私がここに示したように、インターネットで大きなシェアを取る企業の持つプログラムは、ひとつの政治哲学や倫理的な体系を実体化したものです。広く使われる公開のプロトコル(通信の技術的な設計、規約)やソフトウエアも同様の性質を持ちます。

今後、そのようなことにたずさわる企業は、思想的な批判を多く受け、それをビジネス的に具体的な課題ととらえるようになるでしょう。つまり、自社の活動やその源泉であるプログラムを、思想的に正当化しようということを、積極的に考えるようになります。特に、IT企業は能力の高い従業員の志気や自発性に多く依存しています。黙殺や政治的な圧力でそのような批判を封殺しようとすると、内部から従業員の批判的な視線にさらされます。場合によっては、これが消費者からの圧力、不買運動などより深刻な問題になります。思想的に自社を正当化できない企業は、内部情報のリークや人材流出という、具体的なビジネス上の問題に直面します。

攻める側も守る側も思想的な側面を重視して理論武装するようになり、両者の間で激論が戦わされることになるでしょう。ある意味「最もツブシのきかない学問」であった思想哲学が、ベンチャー企業の明暗を分ける最も重要な学問となり、それを習得した人材が引く手あまたになるのかもしれません。

彼らによって行なわれる議論は、ある意味では、ギリシャ以来、ずっと行なわれてきた哲学問答です。しかしその結果を受けて、何らかのプログラムが作られたり改良されたりします。ですから、あいまいさの許されない明確な結論を強制されるような性格を持ちます。これまでと違って、その討論の結果が我々の生活を直接左右するのです。

思想哲学に対するニーズは高まりますが、要求される結果もいろいろな意味でシビアなものになるのです。そのような事態に、現在の思想哲学は対応できるのでしょうか?