聖徳太子の賞味期限が切れた

「戦後政治の総決算」なんて見方はまだまだ甘いと思う。では「明治以来の無理な近代化のツケ」がいよいよ回ってきたのか。それとも、「本質的には鎖国を続けてきた江戸時代からの国民性」を変えねばならないのか。俺は、そんなもんじゃすまないよ、と言いたい。

そもそも、今回の政局で一番おかしいことは、責任者が不在であることだ。これはむしろ自民党一党独裁の時の方がはっきりしていた。三角大福中の時代には、総理総裁が変わる時には実質的には政権交代がちゃんと行なわれてきた。気配りとがまんの竹下さんと言うが、クーデター後は最後まで大将と喧嘩し続けた。トップが腹を切る時は、取り巻きも一蓮托生だったよ。

ところが今回、次の総理候補として名前が上がっているのは、全部責任者じゃないか。まず、最もオフィシャルな意味での連帯責任があるのは、副総理格で入閣している橋本。まあ、これは表の顔ぶれが権力とつながってないという自民党の事情を考慮してやってもいい。そうなると、派閥のNO2である小泉の名前が出るのがおかしい。最近は自民党の動きは派閥単位で考えちゃいけないみたいだ。そうなると、実質的に森を選んだ4人組の一人である野中が有力候補だってのはどういうことだ。

自民党ってのは、悪いことばっかりする人たちの集りなんだよ。今さらそんなことに驚いてどうする」とか言われそうだけど、彼らには彼らなりの倫理はあった。その倫理が法律や一般の常識とはちょっと違うのは確かだけど、彼らなりの独自の倫理はちゃんと守られてきた。失敗した奴が責任を取るという、本当に最低限のルールが乱れたのはつい最近だと思う。

何でこんなことになっちゃったのか考えるには、政治家じゃなくて俺たち自身のあり方をもう反省しなくちゃいけない。政治家たちがリスクを避けて勝馬にのりたがるのは、やはり俺たち日本人がどこかでそういう選択をしてるんだと思う。受験戦争やバブルだって、みんなして勝馬に乗りたがるからここまでおかしくなってる。勝つ方を選びたいのはあたり前なんだけど、選択する時にはリスクがあるということを受けいれなくちゃいけない。俺には日本人が目の前にリスクがあるという現実を否認してるように見える。そのことが問題を深刻にして歪めてしまうのだ。

それで、こういうリスク回避の元祖は誰かというと、これが何と聖徳太子なんだよ。あの時も、ローカルルールの神道を取るかグローバルスタンダードの仏教を取るか重大な選択を迫られていた。国内世論はまっぷたつで、どっちを取っても深い傷が残る局面を向かえていた。聖徳太子は一応仏教派の蘇我について実権を握った。政治的にはそれなりにケリをつけたけど、戦後処理の中で施政方針として、「どっちも取る」という表明をした。対立する二つの思想を矛盾を解決しないでひとつの体系に収めるという、世界史上誰もやってない離れわざを演じた。ひとつ上のレベルに視点を上げて矛盾を解決するってのはヘーゲルがやってる。しかし、矛盾を解決しないで体系化するってのは聖徳太子以外誰もやってない。そんなことをちょっとでも考えた奴さえいない。

もちろん、聖徳太子は天才であり日本にとって恩人であり、その後1300年以上我々はその恩恵を受けてきた。例えば、深刻な*宗教*がらみの内戦はないし近代化もうまくやった。しかし、さすがにとうとう賞味期限が切れたようだ。俺は、リスクを取らない国民と責任を取らない政治家に、そのマイナス面を見る。