国会議員は法律よりエラい

小沢さんの秘書逮捕の件は、おおよそ次の3つの見方があると思う。

  1. 自民党の指示で検察が動いた
  2. 検察独自の意思で動いた
  3. 単なるルーチンワークである(誰かの意思ということではなく、証拠が出てきたので逮捕)

1.の自民党の指示で行なっていることだとしたら、私は容認する。いくつかの条件が満たされたら、積極的に自民党を支持する。

実際どうなのかハッキリとはわからないけど、おそらく2.か3.かその中間くらいではないかと思っていて、前のエントリはその前提で書いた。

日和見していた」と書いたのは、この中のどれなのかもうちょっと見極めたいと思っていたからだが、最初から今回の件に関しては、2.と3.は許されない暴挙だと思っていた。

検察がルーチンワークとして法を犯した犯罪者を捕まえることが、なぜ暴挙になるかと言えば、国民主権の国では国会議員は法律よりエラいからだ。

なぜなら、法律とは過去の民意の集積でしかなくて、国会議員は現在の有権者の意思を代行しているからだ。

議論をして法律を作るのが立法(政治)の機能で、起こった問題を法律に照らし合わせて裁くのが司法の機能。両方がきれいに分かれていれば、お互いに自分の領分で粛々と仕事を進めてもらえばいい。でも、どうしても立法と司法の衝突が起こってしまう領域もある。

これは、id:sekirei-9さんのブクマコメントで教えられて初めて知ったのだけど、「統治行為論」という議論があるそうだ。

国会議員の不逮捕特権も同じような話だと思う。

社会契約論をベタに受け取れば当然そういうことになるが、司法と政治が重なる分野では、政治活動を優先して司法は一歩譲るべきだという議論は私のトンデモではなくて、昔からある話である。

「法律に違反していて証拠があるのだから検察GJ」とそこだけで思考停止してしまっている人は、是非そのことをよく考えてもらいたい。

もちろん、これらの議論は、そういう領域はあるとしても非常に限定された狭い範囲のことである。私は、そこをもっと広げて、政治の位置を高くすべきだと主張したい。

政治を進める為には、時に法律に違反していても司法はスルーすべき時がある。というか、国会議員は任期中は何をやってもお咎め無しくらいで良いと思う。その代わりに、任期中に自分が何を考え何をやったのか逐一公開の場で報告すべきだ。政治活動の公開義務を強めることと引きかえに、不逮捕特権を拡大すべきだ。

世の中が安定している時には、過去の有権者の意思と現在のそれはほとんど一致しているから、司法が法律=過去の有権者の意思に従ってどんどん事を進めても、それほど実害は無い。

でも、時代が大きく変わる時には、司法はいつもより控え目になって、少しでも政治がからむ問題は、現在の有権者の選択にゆだねるべきである。つまり、国会にまかせるべきである。

何故かと言えば、司法は過去の民意に対してアカウンタビリティがあるだけで、現在の民意に対して責任を取る仕組みがないからだ。失敗しても責任の取りようがない。

国会議員は、次の選挙の為に説明しなきゃいけないし、それが受け入れられなければ、選挙に落ちるという形で責任が取れる。

自民党が検察を使って政敵を排除したとしたら、明らかにルール違反である。そういうことをするなら、「今は非常事態であるのでどうしてもこれをするしかなかった」ということを説明する必要がある。黙っていてもそれは一つの暗黙の説明である。

もし、自民党がやったことなら、それを有権者は審判することができる。

検察にはそれができない。

だから、麻生さんの意思で非常事態の為の緊急手段を使ったということがハッキリ示されて、事後にきちんとした説明があるなら、私は今回の立件を支持する。

政治の意思でなくて、検察の意思で政治の領域に割り込んできたのだとしたら、支持できない。

検察は過去の民意の中で現在の民意に抵触しない範囲で動くべきであり、その範囲がどこまでなのかは政治が決める。つまり、それはその時その時で境界線が変わり、それは法律という固定化されたルールでなくて、国会議員の総意としてその時その時に応じて決めるべきだ。

私は、司法や行政の専門性を否定しているわけではない。与えられた一つの枠組みの中で正しい答が出せるのは、その道の専門家だと思う。でも、その枠組みを決めるのは専門家ではない。

ソフト屋の言葉で言えば、仕様を決めるのユーザであり、専門家は与えられた仕様の中で最善を尽くすだけだ。仕様を決めることを手伝うことはあるが、主体はあくまでユーザである。

仕様が自明に決まっている時には素人が口を出すとロクなことにならないので、素人を排除すべき場面はあると思う。司法には、独自の価値観と高度な専門性は必要である。

でも、その専門性は与えられた仕様の中で発揮されるものであり、「何が正しいか」ということの根本は政治が決めるべきだ。危機の中では、そういう意味で政治の役割がより大きくなる。

枠組みを決める場合には、確実で証明された答えというのは、世の中のどこにも無い。誰もが少しづつ正しく少しづつ間違っている。議論すると、たいていの場合、みんなの正しさよりみんなの間違いが集積されていってしまう。でも不思議なことに、みんなの間違いを集めたその無駄だらけのどうしようも無い答えが、結局は一番良い答になっているのだ。

私は民主主義の原理主義者だと思う。民主主義が貫徹されれば国が亡びても良いと思っている。なぜかと言えば、民主主義というのは、国民全てが言い訳ができない制度であって、何かマズいことが起きた時に他人のせいにすることができない仕組みだからだ。国が亡ぶ時には、自分たちがバカを選んだからこうなったと納得するしかない。その一点しか理由が無いことがいい。

結局、国を本当に強くするにはそれが一番いい方法だし、人間、そういう緊迫した状況の中で生きられるのは幸せなことだ。

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