熱狂的阪神ファンのような宗教性

熱狂的阪神ファンのような宗教性ということを考えている。

おそらく昔は「エライ人」というのは、そんなにたくさんいなかった。例えば、字に書いてあることなら寺子屋の先生に聞いて、書いてないことなら和尚さんに聞く。そして、こういう日常レベルのシステムから外れた話として、行商人のような「異界」からやってくる人のみやげ話を聞く。

これくらいで知的なニーズはほとんどまにあってしまう。和尚が酋長だったり牧師だったりまじない師だったりする違いがあっても本質的にはこんな構図が何千年も続いてきたわけだ。人間というものは、こういうシンプルな体系に適応しているんだろう。

だから、今のように「エライ人」が一意に決められない世界というのは、実は我々にとってすごく居心地が悪いはずで、価値観を単純化しようとするニーズはふんだんにある。わかりやすいのがオウムのようなカルト、オタクや阪神ファンのように一種閉ざされた特殊な空間に住もうとする人もこういう視点で理解するとわかりやすい。そして、何より「科学」というのは、こういう意味で価値観を単純化する役目を背負っていたはずで、大槻教授などには、そういう古代の名残りのようなものが見える。

この居心地悪さをなんとかしようとすると、バラバラの価値観をかき集めてきて、それをひとつのシステムにおさめようとすることしかできない。結局、これは集めてきた価値観を順番に並べる人が一番エライ人になるだけで、人間の本性にはうまく適合するが、混乱をおさめるだけの力はない。

しかし、阪神ファンは日常全てが阪神を中心に活動しているのに、この価値観や世界観が世界全体を飲みこまないことをはっきりと認識している。熱狂的阪神ファンと熱狂的麻原ファンの違いはそこだ。どちらも日常の大半をシンプルでわかりやすい価値観の中で暮らす、だから毎日楽にすごせるわけだが、その価値観の絶対性を求めるか求めないかが違っている。

宗教にとって大事なことはこころのおさまりをつけること、一元的な価値観は方便のはずだ。阪神ファンのような多層的な価値観を持つ宗教が今必要とされているのだ。同時に、道頓堀に飛びこむ阪神ファンを見るような、軽蔑がまざりつつもはっきりとした容認のスタンスで宗教を見ることができる社会も必要とされている。