即物的な超越性

《陸這記》 crawlin’on the groundに、オウム真理教に関する非常に鋭い指摘がありました。


オウム真理教(とくに実行犯となった信者たち)が当時、あれほどまでに異様な迫力をもっていたのは、彼らのやったことが宗教的な行為だったからというよりは、(宗教でありながら)あまりに散文的で即物的だったからだ。たしかに美的でも文学的でもなかったろう。人を殺しておいて、カニを食いたいから北陸に逃げよう、などという散文的なエピソードは、これまでどんな文学作品にも描かれてないはずだ。

「人を殺しておいて、カニを食いたいから北陸に逃げよう」とか、この後にある「領収書を切ってのり弁を買う逃避行」というエピソードは、まさにオウムの本質をついていると思います。私は、彼らが事件を起こす前から興味を持っていて、機関紙を立読みしたりしていましたが、麻原の説法には、この異様に平板な世界観が濃厚に漂っていました。人の命や一生がカニやのり弁と同じレベルなんです。入信して出家した人たちは、まさにそこにひかれたのだと思います。彼らは本当に麻原に忠実な信者で、尊師の価値観をそのまま継承しています。

オウムを批判するのであれば、ここを真正面から批判しないといけない。犯罪や非合法な宗教活動がどうのこうのというのは、危機管理の問題として、それをとりしまる警察や法律に対する批判としては有効だし必要だと思います。しかしそれは外側からの批判であって、オウム自身への批判にはなりません。経典の恣意的な解釈とか危険な修行体系等を批判しても、それは宗教学的な批判であって、宗教としてのオウム真理教、宗教者として麻原を批判したことにはなりません。

麻原は徹底的に批判されるべきだと私は思います。しかし、その為には彼がしたことの本質をきちんと批判しなくてはいけない。彼は、宗教的な解脱とヘッドギアというちゃちな電気仕掛が同一の平面にある、奇妙な宗教を発明したんです。言わば「即物的な超越性」という、誰にも想像できないものを作り出したんです。そして、それでしか救済されない人たちがたくさんいて、彼の回りに集まったんです。

「約束された場所で」の巻末の対談の中で、村上春樹がこれに近いことを言っています。


ほんとの良い音楽というのはいろんな陰がありますよね。哀しみや喜びの陰みたいなのが。ところがオウムの音楽にはそれがまったく感じとれないんです。ただ小さな箱の中で鳴っているみたいです

しかし、彼は「ただ小さな箱の中で鳴っている」音楽しか受けつけない信者たちは、単に感性が貧弱なのであって、違う種類の体験が不足しているだけである、と解釈してしまった。だから、id:solarさんが批判するように、「『オウムという物語』より強い「物語」を小説によって示す」という方向に行ってしまったのでしょう。

オウムの信者たちが平板な音楽しか受けつけないのは、単なる食わず嫌いのようなものではないと思います。そのような感性は彼らに宿命的にこびりついている。

もし、麻原を宗教者として批判する人が「あのような貧弱な平板な感性をたたき直さないと救済を得られない」と言ったら、そしてもし、それを宗教的なメッセージとして伝えることに成功したら、「ああ、そうなの。じゃ俺は救済されないね」とあっさりと死を選択する人がたくさんいるでしょう。そのスーパーフラットな感性、「大きな物語」に対する不感症のようなものは、別の可能性をいくら見せても消えるものではないんです。それは、この時代に生きる者の魂そのものだと思う。それをそのまま受けいれて救済するという可能性を示した宗教者は、麻原だけなのだと思います。

ですから、宗教者としての麻原を批判する者は、別の救済の可能性を示さなくてはなりません。平板な感性を拒否しないで別の方法で救済しないといけないのだと思います。そこに真正面から向きあわない宗教は、宗教の名に値しない。もしどうしてもそれが嫌なら、そこから逃れられない人の大量死を甘受しなければならない。「ああいうふうでは、とても救済できないから仕方ない」と。

即物的な超越性」を熱望しているのはオウムの信者だけではなくて、我々も同じ時代精神の中にあると思います。その欲望を素直にストレートに表現するか、巧妙に回りくどく表現するかの違いだけで、むしろ、我々の方がより強くそれにとらえられているかもしれません。宗教者がこのことに気がつかないふりをするのが、私には非常に遺憾です。麻原は汚いし低能だし下品だから嫌いですが、少なくとも真摯であると認めざるを得ません。

私はずっとこのことを考えていたのですが、長い間漠然とした不満でしかなかったことを、id:solarさんのこの文章によってやっと言語化できました。