ひきこもりとリスクテイキング

戦時中に自分の子供が徴兵拒否をするのと、今、自分の子供が登校拒否をするのとどちらがたいへんだろうか。

徴兵拒否は当時、はっきりとした違法行為だから、そりゃ親はあせるだろうがひとつはっきり言えることは、徴兵拒否の親には迷いはなかっただろうということだ。どうしたらよいか迷うことはなく、ただひたすら子供を戦争に行かせることを考えるだけだろう。それがうまくいかなければ、悩むことはあるだろうが、おそらく、行かせるべきか行かせないべきか迷うことはない。

それに対して、登校拒否の子供を持つ親は子供を行かせるべきか、(当分の間だけでも)そのままにしておくべきか、決断を要求される。もうちょっとはっきり言うと、徴兵拒否の子供を無理して兵隊に行かせようとして子供が自殺してしまっても、親は回りから非難されることはない。しかし、登校拒否の子供を無理に学校に行かせて死なせてしまったら、親は胸をはって「あれはしかたなかった」と言うことはできない。

つまり、昔は、あるゆる状況で「親が親としてすべきこと」を社会が考えてくれた。少くとも、こういう考え方をしてこういう行動をとれば、結果が悪い方へころんでも「仕方なかった」と言えるような行動原理があったわけだ。

説明のために極端な例をあげたが、日常生活のさまざまな場面で、例えば、子供がおかずを残した、友達とけんかした、ゲームソフトを欲しがった、などなど、いろいろな場面で、どうしたらいいのか簡単に「決定版」の答えが用意されていない。常に、どういう規準でどういう決断をするか手作りで考えて、自分で決断していかなくてはいけない。そして、その決断を間違えた時の責任はひとつひとつ全て、親が自分たちだけでしょいこまなくてはいけない。

こんな風に、親としてのあり方に、社会からのサポートがないという状況。こんなことは、世界のどんな国にもないし、過去どのような時代にもなかったことだ。現代の日本以外では、何らかのかたちで、社会が「正解」を用意してくれている。もちろん、社会の出す「正解」に素直に従う人ばかりではない。戦時中の日本だって、警察につかまったって断固徴兵を拒否した人はいたし、それを誇りに思ってサポートした親だっていただろう。そういう人たちは、全ての責任を自分でしっかりしょっていた。だけど、それはごく一部の例外で、それ相応の必然性があって覚悟がある人たちだ。今は、そういう信念を外部に求められる人の方が例外で、ほとんどの人が、そういう覚悟もない人が自分自身の決断を迫られることになっている。だから、今の親は常に自信がないし、子供はそれを見すかすから余計思うとおりに育たない。

「昔はこんなことはなかった」と言う人は、この状況を踏まえて言うべきだろう。確かに、昔と今は違うけど、違うのは親のあり方でなく社会のあり方だ。社会が唯一の「正解」を用意できなくなったのだ。こういう社会の暗黙のサポートなしに、親として子供に対することが、どんなにしんどいことか、やってみなきゃわからないだろう。「親がしっかりしてない」とか「家庭の教育がなってない」とか言うけど、今、子供に何かをしつけるのは命がけだ。もし間違えたら、それはダイレクトに自分自身の決断のミスになる。さらに、失敗した時にどれだけのリスクがあるかということも限界がない。暴走族や万引ですめばもうけもので、自殺はもちろん、よその子供を監禁したり刺したり、何をするかわからない。「うちの子には絶対そんなことはない」と断言する人は、無意識にそれを恐れているから言うだけで、本当にそんなことはないと心の底で信じているわけではないと思う。

実は統計上の数字では、戦後まもなくの時期より今のほうが、子供の自殺は減っているそうだ。しかし、私は実感としてはそうは思えないし、多くの人も同じだろう。マスコミが騒ぐだけでなく、そういう不安が親に増えているから、実感と一致してないのだと思う。テレビでひきこもりを扱う時も、「こうすればひここもりになります。こうすればなりません」と妙にレシピ的にまとめる傾向があるが、それもこういう心理が背景にあると思えば説明できる。

とりあえず、親をやってる人は肩の力を抜きしょう。人間、自分ひとりの責任でリスクをしょいこめるものではない。ちょっと前まで、ごくわずかな例外がしていたことを、今は、親というだけで要求されてしまう時代なのだ。社会というのが、こういう暗黙の精神的サポートをしていたなんてことは誰も教えてくれないけど、これなしで親をやれなんてことは、無理難題なのだ。そして、親でない人は親をやってる人にもの言う時は、これを踏まえて言うように。もちろん、責任から逃げることはできないし、正解がどこにあるかわかるわけじゃないけど、無理難題を当然のこととしてやらされるのと、無理難題だけど無理でもやらなきゃならないこととしてやるのは全然違う。

そして、重要なことがもうひとつある。「社会のサポート」と言ったけど、日本以外ではこれは*宗教がやってくれていることが多い。いざという時の行動原理として宗教を持っていると悩んだり迷ったりしなくてすむ。特に凡人には必要なものだ。これはこれで副作用も大きいので、手放しで歓迎できるものではないのだが、宗教がないということの弊害としてこういう問題がある、ということは知っておいたほうがいいと思う。

日本は、ギリギリのリスクを取る時の精神的なサポートを宗教でなく社会に求めた。このことを、専門用語で「世間様」教という。これがあるから、社会と実質的な宗教的なものが乖離しないで、経済的にはうまく回って高度成長をなしとげた。むこうでは、労働が神の与えた罰だったり、コーラをのむのに神様の許しが必要だったりして、経済と宗教が緊張関係にあり、社会が効率一本槍で進むことができなかった。しかし、緊張関係にあるということは逆に言えば補完関係にあるわけで、社会が救えない人や救えない問題を宗教が救ってくれたわけだ。日本では、道徳や社会構造のレベルと精神的、宗教的なレベルを単一階層で間に合わせた。これでおいしい汁を随分吸ったわけだが、ダメになる時は両方同時にダメになるからひどいことになる。

例えば、外では銀行員でリスクテイキングをしたことのない人が、教育は妻にまかせっきりで評論家になっていたりする。妻がやることにケチをつけていれば安心なのだ。何か問題が起きたら「だから、あの時、俺はこう言ったのに」と言っていればすむ。会社でも当事者になってリスクをとることを避けて、評論家のままですませることに長けていたりするから、母親はうまいこと当事者の側にまわされてしまう。そういう人は、うちでも会社でも同時にこういうことが許されなくなり、自分自身の決断でリスクをとることを迫られるハメになる。私の場合は、会社でリスクを取る経験を多少つんでから、家庭の問題に直面することになった。順番にできたからラッキーだったけど、両方同時にくらったらこれはしんどいと思うよ。