椎名林檎の「翳りゆく部屋」

何度も言っていることだが、私は初期の*ユーミン*のファンである。最初の2枚のCDと「紅雀」だけは家宝同然の扱いだが、最近のものは全く持っていない。そして、この中間に微妙な扱いのものがあって、廉価版があったら買ってもいいかな、くらいに思うものが何枚かある。ところが、さすがにロングセラーになっているのか、今だに安く買えるものは少い。そこで、CD屋に行くとこまめにユーミンの棚を見ることになる。ある日、そこで「Dear Yumming」なるトリビュートアルバムを発見した。

だいたいあの人は歌がうまくない。あれだけの名曲をあの蛙の断末魔をサンプリングしたような声で歌われては、歌のうまい人はほってはおけない。「あんなドヘタに歌わしておいては曲がかわいそうだ。自分がちゃんと名曲にふさわしい音にして世に出してやろう」そう、思う気持ちはよくわかる。しかし、これはよほどの覚悟がない限り手を出してはいけない禁断の領域なのだ。それが証拠に吉田美奈子大貫妙子矢野顕子も一曲も歌ってないではないか。

ユーミンの曲を歌うとそのアーティストの限界を暴露することになる。あれは暴れ馬みたいなもので、よほど熟達した乗り手でない限り、曲が内面に秘めているパワーに振りおとされてしまうのだ。あるいは、*シシ神様みたいなもので、「いのちを与えもすれば奪いもする」。うっかりふれるとアーティストとしての、生命力を吸いとられてしまう。何だか気の抜けたビールみたいな音楽が出現することになる。ユーミンのカバーという領域にはハイファイセットからはじまって、討ち死にした強者どもの死屍累々。だいたいユーミン本人だって、曲の深部から出てくる得体のしれないパワーを扱いかねているではないか。またトリビュートアルバムなんぞ作って、この上また儀牲者を増やすのか?

そう思いながら、見ていると椎名林檎の名を見つけた。私は彼女のCDも持ってないし、彼女のことはよく知らない。 CMに出てくるギョロ目が恐かったことくらいしか印象になかった。しかし、「翳りゆく部屋」という選曲を見て、突然、何かがヒラめいた。「これはひょっとするとひょっとするかも」

長年、命がけで音楽を聞いているものの直観だろうか。その日は、そのまま帰ったが、なんだか、気になってしょうがない。「あれを椎名林檎があの声で歌う。まともにバラードのまま歌うのか、林檎風にメチャクチャにして歌うのか。どちらにせよ、なんだか面白いことになりそうだ」結局、1月ほどたってから、買ってしまった。直観がバッチリ当たっていた。

アレンジは予想に反し、中途半端なものだった。前半はひきがたり風、途中からちょっとだけヒートアップして林檎的なものをチラと見せておしまい。要するに、まっこうから歌を主役にしているアレンジである。これは凄いことだ。凄い度胸と言った方がいいのか。しかも、ユーミンの文脈にも自分の文脈にも頼らず、素の自分で一対一で向きあっている。だいたい「翳りゆく部屋」というのは、みかけに反して難曲である。よく詩を聞くと、別れる相手の男が妙にヤな奴であって、なんとも後味の悪い別れ方をしている。本家は冗談のようなゴージャスなアレンジで軽くしのいでいるが、普通の悲しい別れではない。本当にたちの悪い暴れ馬だが、椎名林檎はみごとこれを乗りこなしてしまった。

最初にユーミンの歌をけなしたが、そうは言っても、彼女の歌を彼女以上にうまく歌う人はほとんどいないと、私は思っている。あのノっぺら声は、シシ神様のドロドロのような生命の源流から湧きあがってくる何者かに対抗するための見事な手段なのかもしれない。それ以外になかなか手段はないのだ。この「Dear Yumming」でも、当然、歌のうまい人をそろえているが、聞けるものはノッコと大江千里だけ。あと、情状酌量森高千里。この三人はドロドロエネルギーからうまく身をかわして、それなりのものを仕上げている。他は、原曲の持つ大事な何かを殺しているというか、自分の持つ何かを吸いとられてしまっているというか。

しかし、椎名林檎のやっていることはちょっとアプローチが違うというか、次元が違う。原曲のエッセンスを完全に消化して自分のものとして表現している。かわしてもいないし、逃げてもいない。とにかく、これは本家を凌ぐものだ。こんなのはじめて見たよ。何者なんだ、こいつは!