オープンソースジャーナリズム

東芝サポート問題は、「*オープンソース*ジャーナリズム」というものが存在し得ることを示した。言葉を変えれば「多くの目玉があればデマなんて恐くない」ということだ。

ジャーナリズムにもソフトと同じように、工程というものが存在する。まず、関係者の取材とその裏付け、関連文献の調査などの事実の収集。そして、たくさんの事実を関連づけ取捨選択し、ひとつのストーリーを組み立てる。最後に、それを文章としてまとめ記事にしたり、ビデオを編集しテレビの番組にする。外部の人間が目にするのは、記事や番組という最終的な成果物だけだった。だから、その成果物の真偽や品質を確認するためには、その製作者を信頼するしかなかった。この構図は、従来の商用ソフトと同じである。

ジャーナリストもソフト製作者も、多くの者はプロとして技術、ノウハウとモラルを持って仕事をしている。だから、これまではその「ブランド」に信頼を寄せて、消費者は提供されたものをそのまま受け入れてきた。しかし、どちらも霞を食って生きているわけではない。それで商売をする以上、どうしても限界があることは否定できない。別に消費者をだまして大儲けしようというわけではなくても、現実的に安定した収入がなければ、そういう仕事を継続していくことは難しい。どちらの作業も、人手を時間をかければかけるほど品質が向上するのは確かだが、かけられるコストには上限があって、どこかであきらめなくてはいけない。このような、職業としての限界は暗黙のうちに「必要悪」として黙認されてきた。

しかし、インターネットによって状況が変わってきた。最初に変化が現れたのはソフトの世界である。「フルタイムで職業として開発に従事する少数の専門家」という従来の開発組織と違う形態で多くのソフトが開発されるようになった。十分時間が割けないボランティアでも、ソフトやコンピュータの専門家でなくても、たくさん集まればずっとよい仕事ができる。このことを、LinuxApacheといった多くのオープンソースプロダクトが証明した。同時に、重要なことは「主体的な参加」であることも明らかにした。参加者が、自分の目でものを見て感じて動かし、それをコミュニティにフィードバックする。多くのメンバーが、ソフト開発の能力、専門知識、スキルなどを持っていなくても、そういう「主体的な参加」をするメンバーが多数いれば問題ではないことを証明した。また、上からの強制的な管理がなくても、プロジェクトは崩壊せず自然と自律的な秩序が生まれることも示した。

どちらも、ソフトの専門家にとっては信じがたいような衝撃的な事実だ。ソフトの開発というのは、非常に時間がかかり偏執狂的な正確さを要求する作業だ。ちょっとしたアプリケーションでも、内部には物凄い複雑さがあって、これを管理するのは並大抵のことではない。それを「素人が大勢で土日に作るって?冗談も休み休み言え!」現在はLinuxを愛用している人でも、ソフト開発の専門家ならばほとんどが一度はこういう感想を漏らしたことだろう。現に動いているブツをみない限りは信用できるものではない。

だが、それは確かに動いている。幸い、コンピュータというのは歴史も浅く、特にソフトはハードの進歩に振り回されて、技術の蓄積ができなかった。だから、常識のない怪しげな「自称」プログラマも多くいるが、悪い意味のプライドを持った人や空理空論を振り回す人は少ない。現実と自分の持っている枠組みが一致しなければ、現実を優先する人のほうが多い。だから、だんだんとオープンソースソフトというものはだんだんと認知されてきている。

今回の東芝問題を見ていて、私は、同じことがジャーナリズムの世界にも起こっているのを感じた。この問題を広めたのは、もちろん第一に暴言の音声が聞けるA氏のホームページだが、それをサポートした悪徳商法マニアックス掲示板もそれに劣らず重要な役割を果たした。図式的に整理すると、世間にこの問題を認知させる上で、前者が量的な拡大に貢献し、後者が情報の質的な向上に貢献したのではないだろうか。もちろん、多くの人が関心を持ったのは、問題の音声のインパクトだろう。しかし、これだけであったら、井戸端会議的な一時の興味は持たれても、問題の本質は追求されず継続的な広がりは得られなかっただろう。

これはA氏のホームページの内容の問題ではない。問題の当事者だけの見解ではどうしても全体像が把握できない。両者の言い分を併記して、比較し分析する、報道というものはどうしても必要だ。しかし、その作業は少数の専門家でなければできないものではない。マニアックスの掲示板は見事にその役割を果たした。管理者のbeyond氏は、自身はA氏を支援する立場であるにもかかわらず、それに反対する意見を一切制限しなかったし、議論も誘導しなかった。黙々と、複数ハンドル名の使用や誹謗中傷を咎める最低限のルール維持だけに努め、後は全て参加者たちの意志にまかせた。 beyond氏自身がどれだけ意識しているのかわからないが、これは非常に重要なことだし、今後起こるであろう「オープンソースジャーナリズム」の手本となるべき見事な判断だと思う。

その結果、まず、膨大な断片的情報が集まってきた。個々の情報は、不確かだし多くはニュースソースも示されておらず検証できないものがほとんどだ。しかし、たくさん集まることで、ある程度は判断材料になる。そして、情報が多くなると、それを整理して分析してくれる人が出てくる。非常に論理的で整理された見事な見解をいくつも目にした。私自身、これでだんだんと問題の本質や全体像が見えてきた。最後に、そういう仮説を具体的な事実で検証する人が出てくる。例えば、ビデオの開発者、他メーカーのサポート担当者、あるいは、東芝の関連部署に勤めていたり取引関係がある人。こういう人が、自分の経験や知識をもとに、そういう仮説を検証してコメントした。そして、仮説や論点が整理されてくると、またそれに関わる情報が集まる。こういうサイクルが繰り返されて、だんだんと一種のデータベースのようなものが形成されてきたような気がする。

私がこの問題に気がついた時には、こういうサイクルが回り始めて、すごく密度の高い情報になっていた。もちろん、何も知らない者があの膨大なログを追いかけるのは大変だった。しかし、あちこちに「その件はこのURLに詳しく書いてあります」とあって、それを見ると、事件を時系列にまとめてあったり、S-VHSという規格や今回のノイズに関する技術的な分析だったり、FAQだったり、別の掲示板だったりで、問題を非常に多面的に考えることができた。こういうもの全てひっくるめてひとつの「報道」と考えると、ひとつの事件をこれだけ詳細かつ多面的に扱った報道は他のどのようなマスコミでもみたことがない。客観性という面では評価するのが難しいが、A氏の言い分をみんながそのまま無批判に受け入れたのではなく、いろいろな人が細かく検討を加えていたことは間違いない。もし、A氏が誇張や捏造を行っていたり、もともと東芝に対する悪意などを持っていたら、状況は全く違っていたと思う。

しかも、重要なのは、これが「オープンソース」であることだ。全ての過程が公開され、「ソース」が開示されている。例えば、Linuxセキュリティホールが見つかって、直したとしよう。この修正が、正しく穴を塞いでいるか、他の機能に悪影響がないか、そういうことは複数の人によってすぐ検討される。「ソース」が公開されているからだ。もちろん、カーネルのソースというのは、プログラムの中でも特に難しいもので、相当な専門家でなければ読めるものではない。多くのユーザにとっては、自分自身でカーネルのソースを調査することはできない。しかし、自分でできなくても多くの専門家が検証していることを知っているから信用する。重要なのは、複数の専門家が自分の見方、自分の立場で検証するから、多面的な検証ができることと、ほとんどがボランティアとして自主的に参加しているから、嘘やごまかしがないことだ。これと同じことが、マニアックス掲示板の「報道」についても言える。全てが、検証可能なのだ。自分で検証することは時間的に不可能でも、何人もが自主的に検証している。これが、情報の質と信頼性を保証している。まさにソフトウエアと同じ「オープンソース」であることのメリットだと思う。

こういうことが、自然発生したということが画期的だと思う。まさに「オープンソースジャーナリズム」の誕生である。

そして、Linuxに驚いたソフト屋の一人としては、なぜ筑紫哲也がああいう発言をしたかもよく理解できる。「素人が大勢で情報を持ちよって、事の是非を判断する?何と危うい!」おそらく、彼はそう感じたのではないだろうか。ちゃんとした見識があって、報道の一般常識をわきまえて、事の判断がちゃんとできる人、つまり専門家がリードしないで、一般大衆の勢いでひとつの世論が形成されてしまうこと、その危うさ。それを感じたのだと思う。ちょうど「ボランティアがOSを作る?そんな危ないもの誰が使うか!」とソフト屋が言うのと同じだ。「多くの目玉」があることが、信頼性を保証するという仕組みがわかっていないのだ。

現物を見ないでモノを言った罪はあるけど、現物を見ないで言うとしたらそういう発言になるのは理解できる。ソフト屋だって、Linuxという現実、オープンソースという現実を受け入れるには時間がかかった。まだ、現実を無視してでも受け入れない者もたくさんいる。しかし、もちろん現物を見ないでモノを言った罪は重い。特に、ジャーナリストというのは観念でなく現実を取材して判断する商売のはずだ。そういう意味では二重に問題がある発言だ。ただ、彼が今後、こういう現実を見つけることができるのか、そして、見つけてからどういう判断、どういうコメントをするかは興味深い。

さて、次はいったい何が「オープンソース」になるのだろうか?