「○○でない」という主張の微妙な狡さ

OSDオープンソースを巡ってのまつもとさんと塩崎さんの論争ですが、ここで塩崎さんは、自分の主張の動機として次のように言っています。


俺に火の粉が飛ばないうちは君が何をやろうとどうでもいいけど、 頼むから俺のほうに火の粉を飛ばしてくるな

これは、まつもとさんが「OSD=オープンソース」と言わなければ、塩崎さんには火の粉が飛んでこないという主張です。つまり、オープンソースという言葉がOSDという言葉と切り離されてひとり歩きして、俺定義があちこち出回っても自分のソフトウエア開発には支障が生じない、という現状認識を含んでいると思います。

はたしてこの認識は世の中のそれと一致しているのでしょうか。そのあたりの認識や感覚にズレがあると思うんですね。 確かに、「塩崎さんの定義した述語世界 ーーー 長いので、ここでは仮にSワールドと命名しよう」においては、まつもとさんが「OSD=オープンソース」という認識を強調することは「余計なお世話」ということになるわけです。

この論争が微妙にかみあってないのは、まつもとさんは現状に問題点を感じていて、それを「こういうふうに改革しよう」という具体的な案を主張しているのに対し、塩崎さんはその改革案に対する否定の形でしか自分の主張を述べていないのが理由だと思います。

「俺に火の粉を飛ばすな」という主張は、「おとなしくしていれば火の粉は飛んでこない」という主張、つまり現状に対する肯定的な見方を内在しているのであって、そこを明言してない所が狡いように私には思えます。「火の粉」という言葉を使われる以上は、オープンソース運動に対する反発があるということは意識されているはずで、塩崎さんはこの「オープンソース運動に対する反発」=火の粉に対して、どう感じておられるのか。

  1. 火の粉側と同じ意見
  2. 火の粉側には反対
  3. 火の粉側ともまつもとさんにも与しない、つまり中立

私としては、2の「火の粉側には反対」だけどそれを明言して火の粉をかぶるのはイヤ。もし、まつもとさんががんばって火の粉を撃退したら、その成果はもらいたい、という態度に見えてしまいます。

もし中立なのであれば、つまり、まつもとさんVS火の粉の戦いが自分にとって無意味だと考えるならば、


ところで、OSD から外れたライセンスにしたければ、 君のお使いのライセンスに 「このソフトをオープンソース(ソフトウェア)と呼ぶ人々は実行できない」 という一行を追加すると、 たいした実害なしに OSD の 5 項に違反できる気がするがどうだろう。 まあアホらしいから私はやらないけどさ。 そういうセクト化が目的ではないし。

この「俺をオープンソースと呼ぶな」ライセンスを使用すべきだと思います。OSD=オープンソースが世間一般の認識とは言えないとしても、OSDオープンソース運動と無関係な所で使いたいというのは、あまりにも世間の常識と乖離しています。オープンソース運動という「火の粉」の元に深い関連のあるOSDというライセンスを使いたいのであれば、身を守るために積極的に「俺は関係ないよ」と宣言することは必要なのではないでしょうか。

あるいは、「火の粉が発生することは全面的にまつもとさんにその原因がある」と考えられているならば、もう少し本質的な対立点があるはずで、それをストレートに言った方が、このような不毛な論争にはならないと思います。

「自分は○○でない××でもない」というように、自分の立場を否定形でしか述べず、自分の立脚点をあいまいにしていけば、論争には有利ですが、生産的ではありません。