オープンソースから「降りる自由」

上で書いたことは、現代思想社会学の世界では言いつくされていることのような気がして、ちょっとWEBサーフィン(死語)してみたら、面白いくらいすぐ見つかりました。

これらのロジックを使うと、上の私の主張はきれいに論破されてしまいます。

essaは「社会全体を僭称する審級から降りる権利」を認めていない。

essaは「降りる」という人をフリーライダー(ただ乗り)呼ばわりして、「降ろさんぞゲーム」の道徳的暴力を理解していない。

essaのような「ラディカリスト」は、そうでもない人(「オープンソース」≠「OSD準拠のソフトウエアを開発する人」)への想像力を狭めてしまっていることに気付いてない。

困った。どうしよう。