「アムリタ」 吉本ばなな

サミー・ソーサのCMを見ていると、フォームの美しさにほれぼれする。これと同じような感慨を抱く作家が、私には3人いる。*村上春樹*と筒井康隆夏目漱石である。この3人は、日本語の使い方において、天才的であり、熟練しており、うまさを感じさせない。いわゆる頭ひとつ抜けたレベルだと思う。読んでいると内容に関係なく言葉のリズムが、素晴らしい音楽を聴いているように、安らかな気分にさせてくれる。

「それに比べて、XXXは」という言い方は、できるならしたくない。だいたい、「そういう偉そうなことを言う自分はどれほどのものだ」と言われたらぐうの音も出ない。この「ぐうの音も出ない」という表現からしていきなり陳腐である。誰かをけなすための文章を書くほど暇ではないし、誉めたいというか、「こんないいものあるよ」という内容で書きたいことは山ほどある。

しかし、*吉本ばなな*を語る上で、自分にとってはこの話題から始めざるを得ない。そもそも、私は文章にこだわるほうで、文章の気に入らない作家は読まない。少なくとも、小説として本気では読まない。このしきたりのおかげで、命が救われたこともある。これは大げさなことではなく、本当に文章へのこだわりで命が救われた経験があるのだ。これはまた別の所に書くつもりだが、そういう私のささやかなこだわりを捨てさせたのが吉本ばななである。

私の考えでは、小説家というのは、文章のひと文字ひと文字が自分の魂であり、マルひとつ点ひとつたりとも足したり引いたりしてほしくないものである。それだけ、完成されたものを読者に提出するのがプロの作家としてのつとめだと思う。それなのにこの人は、ハードカバーで出した小説を文庫本にする時に、あちこち平気で手を入れるそうだ。ある文庫のあとがきにそう書いてあった。

まあ、そうせざるを得ないだろうなと納得する部分もある。あまりにも未完成な文体だと思う。もちろん、鋭いヒラメキのある表現はあちこちにあるし、読みにくい文章ではない。しかし、小説の文体としては、あきらかにバランスを欠いている所がたくさんある。読み返しているうちに、手を入れたくなるのもわかる気がする。

ちょうど、ヘタウマ系のギタリストによくあるタイプである。なんとなく、どうでもいいけどギターでも弾いてみるかなという雰囲気である。指が動かなくて、ボツボツいったりする情けない演奏だが、音楽としては素晴らしい出来になるようなタイプだ。だいたい、こういうギタリストは楽器も手入れしないし、チューニングが合ってなかったりする。吉本ばななの文章もそういう文章だと思う。なんだか、たまたま日本語しか知らないから日本語で書くか、というような投げやりな文体だと思う。

しかし、この人の小説は凄いと思う。文体でなく、物語としての凄さを持っている。いろいろなことの真実を、とんでもない方向から見せてくれる。吉本ばななの小説を初めて読んだのがこの「アムリタ」だが、私はいっぺんでこの人のファンになってしまった。この人は、前世がチベットの修行僧で、その時に得た悟りを世の中に広めるために、この時代にこういう形で転生してきたそうである。本人がそう書いていて、冗談だか本気だかわからないが、私は完全に真に受けてしまった。この小説の中にあるものは凄すぎて、それがチベット修行僧の悟りなのだと言われても、私にはなるほどと言うことしかできない。

と言っても、仏教や修行やそういう難しい話ではなく、現代の日本が舞台で、ちょっと変わってはいるが基本的にはラブ・ストーリーである。そして、味付けとして「オカルト」と「家庭」というテーマが盛り込まれている。ふくらみのある話だが、ここではある局面だけを取り上げて書いてみたい。

主人公は28才の女性で、物語の前半はこの主人公の家庭が主な舞台になっている。家庭といってもちょっと変わった家庭である。まず、小学生の弟がいる。そして、妹がいるがこの人は物語が始まった時点で既に自殺していてこの世にはいない。母親は、最初の夫(主人公の父)とは死別、次の夫(弟の父)とは離婚して、現在は独身である。この3人に、母親の友人と主人公の従姉妹が同居しているという、5人家族である。

物語の前半では、弟の不登校が描かれている。最初に驚いたのは、この不登校の様子、経験した者にしかわからない本人と家族のつらさが見事にかかれていることだ。不登校というのは、子供の問題ではなく家族の問題か親の問題なのだ。子供は何かをキャッチして、わけがわからないままそれを表現しているだけなのである。だから、家族は第三者として問題にあたることができない。当事者として問題に巻き込まれていくのである。その苦しさがかかれている。そして、これを、どうとらえれば、家族の成長の機会にできるかというのが、実にうまく書けているので驚いた。

だが、この物語の中の不登校は普通のそれではない。その理由は、なかなか本人は言わないのだが、最後に、年の離れた姉である主人公にそっと告白する。それは何と「超能力が身についてしまった」からなのだ。なんだか、頭の中にいろいろな声が聞こえるようになって、ノイローゼになってしまった、というのである。半信半疑だった主人公は、弟の予言どおりにUFOが現れたのを見て、何かとんでもないことが起こっていることを理解する。

これが小説と言うもので、いじめとか受験戦争とか実際にありそうな理由でなく、限りなくとんでもない理由で不登校になるのだが、この弟と姉のやりとりの中に、真実がたくさん含まれている。特に、不登校の子供が抱え込んでいるのは、こういうわけのわからないことなのである。心理的に分析したりして、それが親の何々を投影しているとかいろいろ言うより、「昼間から変な声が聞こえて勉強できない」子供の姿をリアルに描くことのほうが、私の経験したことに近い。

そして、母親が恋人とバリに旅行に行くというと、その弟が「やめてくれ、かあさんの乗った飛行機が落ちるんだ」と言って泣くのである。しかし、母親は頑として譲らず、日程をそのままに強行して出かけるのである。主人公は、弟の予言がただの妄想ではないことを(少なくとも1回はそうではなかったことを)知っているので、悩む。しかし、これが、「人生哲学の琴線に触れる何か」なのだと思って、旅行にでることに賛成する。そして、親子3人のもの凄い葛藤を経て、最終的に母親は出かける。結局、母親はバリに無事到着するが、その次の飛行機が墜落するのだ。

このズレの理由は、弟本人にもわからないし、作者も明確には書いていないが、「不安定な自分を置いて男とバリへ行くのが許せない気持ち」が「本当の勘」をちょっとだけ狂わせた、ということらしい。

この時の、母親の態度があっぱれだと思った。私は、小説というのは作者の経験の産物ではなく、想像力の表現だと思っているが、こういう生き方は作者がそれに通じるものを持っていないと書けないと思う。この母親は自分の生き方をきちんと持っていて、そして一番大事なことだが、自分の責任で自分の生き方を通す。そして、そういう人生をせいいっぱい楽しむのだ。こういう時に子供のことを考えて、自分の大事なものを放棄するのは、自分の人生に対する責任を取っていないことで、決して子供のためにはならない。しかし、こういうことを押し通すというのは、簡単なことではない。その人の生き方が問われてしまう。

親がこういう生き方をきちっとできれば、不登校なんてものはすぐおさまってしまうのである。この物語でも、この事件の後、物語は主人公と弟を巡って大きく展開する。弟はすぐに学校へ行くわけではないのだが、外へ積極的に出るようになり、姉とともにいろいろな巡り会い、事件を体験する。このバリ旅行事件が契機になって、追いつめられていた彼は明らかにベクトルを外に向けるのである。

確かに、親がこういう生き方、態度を明確に取れれば、子供は何か変化するのである。これは、私の経験とも正確に一致している。もちろん、私はこの母親ほどさっそうとしていなくて、子供も明確に変化したわけではないけど、本質的な意味で、私はこれと同じ体験をした。

また、主人公もさんざん悩んで揺れ動くのだが、最後に、母親が出発する直前、顔を見せた弟に「絶対に、絶対に大丈夫だから黙ってろ、と目があった時私は口に出さずに、しかしすごい迫力で言った。それは伝わった」のである。主人公は弟の超能力を知っていて、母親の死ぬ可能性を受け止めた上で、この行動に出るのだから、これもこれですごい覚悟である。この引用からもわかるように、表現のひとつひとつは陳腐きわまりないが、この覚悟も、すごくリアリティがある。やっぱり、チベットで修行してるよコイツは。

この後、主人公の恋人と、弟の(霊界方面の)師匠となる人たちが現れて、物語は大きく展開していく。そして、テーマはオカルト(死と運命)方面に移っていく。この続きも面白くタメになる話が続くのだが、さすがにここから後は私の手に余るので、ここまで。