AI・吉本ばなな・無料のパソコン

コンピュータやソフトの業界は、案外はやり言葉に踊らされるものである。何かキーワードがあると、猫も杓子もそれにのっかって、バブルが生まれ「ソフト開発はXXXで生産性が10倍になる」「これからはXXXを知らないとソフト技術者は生き残れない」とか大騒ぎする。一番最初にあったのが、MISというやつで(これ知ってたら相当な古株です)、構造化プログラミング、CASE、戦略的情報システム・・・でもこんな言葉もう聞いたこともない人が多いと思う。聞いたことある人は、「なつかしいなあ」という感慨がひとしおだろう。

だいたい、どれもこれもしばらくすると誰もそんな言葉を使わなくなるのだが、こういうバブルで一番ひどいのが「AI」という奴である。第5世代コンピュータとかいうプロジェクトがあって、日本が次世代のコンピュータを開発すると、大変な宣伝だったが、今考えると何も産み出さないで終わってしまった。

私は、こういうものに踊らされるタチなので、そういう流行りものをいちいち追っかけて勉強してきた。特に「AI」はいろんな本を読んでみた。その時に感じたことは、どうも「AI」という言葉は2つの全く反対の概念を内包しているのではないか、ということだ。

もっと簡単に言うと、「AI」の本はすごく面白いものと全く意味のないものと両極端に分かれた。どうして、似たような研究をしているのに、こんなに受ける印象が違うのかいろいろ考えたが、わからなかった。当然、自分にとって面白い本だけ読もうとするのだが、それがなかなかできなかった。どのような概説書を読んでも、自分にしっくりくるような区切りをつけてくれる人がいなかった。

まあ、「圏外への道」に書いたように、こういう経験は1回や2回じゃないのだけれど、この問題については、ずいぶん後になってから原因がわかってきた。その区分けというが、言葉にできるようになった。それは、次のように定義できる。

  • A. AIとは「コンピュータを人間より賢くする技術」である
  • B. AIとは「コンピュータで人間を賢くする技術」である

どちらかというと、AIのメインストリームは前者であるが、私はこういう考え方にはなじめなかった。研究を見ても、お経の文句を読んでいるみたいで、理解できるできないという問題以前に興味が持てなかった。一方、後者の発想の研究は、非常に興奮しながら読んだ。「おお!」「すげえ!」「これは!」「そうだよ!」。!マークだらけになってしまった。あまりわからなくても、そうなる本がいくつかあった。

今考えると、何らかの結果を残したのは、後者のタイプの研究者だと思う。一番すごいのは、ザナドゥ(テッド・ネルソン)→ダイナブックアラン・ケイ)→スモールトーク(アーデル・ゴールドバーグ)という系譜で、JAVAとかWEBはだいたいこういう人たちの発想から生まれている。

この人たちの基本的発想は「コンピュータは人間を支援するものである」というもので、コンピュータ自身が賢くなることは追求していない。そうではなくて、人間の知的活動を支援するためには、どのようにコンピュータを使うのがいいかというものである。これは今となれば、明確にわかるのだが、WEBにしろメールにしろ、インターネットの技術というのは、一見どれも対したことない。例えば、コンピュータがチェスの名人に勝ったとかいうと、「すげ〜、何でそんなことができるのか」と思うだろうが、WEBサーバなんてものは、そういうものではない。ただ、指定したファイルを送りだすだけで、プログラマなら「俺だってそれくらいすぐできる」というだろうし、そうではない人でも自動販売機にお金を入れれば出てくるみたいな、あって当然、という印象を持つと思う。

こういうシステムの面白さ、すごさというのは、コンピュータの力を「賢さ」と別の側面で活用していることである。インターネットであれば、ネットワークという側面で、これは結局、時空を超えて人と人が出会う仕組みである。人の知的なパワーを増幅する装置として使うというのは、このような意味である。

もう一歩踏み込んで言うと、こういう発想をできるかどうかは、結局、人間というものをどれだけ信頼しているか、ということにかかってくる。AIをやろうなんて考える人は、人間というのはいい加減でミスが多い、あてにならないものだから、確実で間違えないコンピュータに仕事させよう、という考えが根本にあり、言葉をかえれば「人間を信頼していない」ということに行き着く。

そして、今これに近い分裂を感じるのが「*ビジネスモデル」という言葉である。この言葉は、だいたいインターネットがらみのベンチャーの話をすると、枕ことばのようにつきまとう言葉である。簡単に言うと、どういう商売をして、どうやって金をもうけるのか、という会社の方針みたいなものを示す言葉である。これは情報化時代ならではの言葉で、昔のように、車やテレビやチョコレートを売っているだけの時代には、こんな言葉は存在しなかった。何かものを作ってそれを売るという単純で当たり前のビジネスモデルしか存在しなかったからだ。

インターネットがらみの会社というのは、一見、金にならないことを平気でする。ネットスケープブラウザーをタダで配ったのが良い例で、ブラウザーを配ってサーバを売る、タダのブラウザをみんが使うと、ネットスケープのサーバを使う必要性が出てきてサーバがたくさん売れて、もとを取る。このように、コストをかける部分と、金を回収する仕事が別々になるケースが多いので「ビジネスモデル」という言葉が生まれた。

今のインターネット業界は「ビジネスモデルの開発競争」と呼ばれている。これだけ世界中の人々を引きつけるのだから、商売にならないはずはないのだが、実際に金を取るのが難しいのだ。一番単純なモデル、有料のWEBサイトというのは軒並みダメになっている。料金を安全に回収するのが難しいし、他に同じような情報がいくらでもあるので、だいたい、有料のサイトはそれだけのユーザを引きつけることができない。だから、ひとひねりもふたひねりもして、いろいろ知恵を絞っている。

その中で、一応商売になっているのは「広告モデル」という考え方で、これは簡単に言うとテレビと同じ発想である。テレビというのはタダで見ることができるが、もちろん番組を作るのは莫大な費用がかかる。どうやって金を集めるのかというと、ご存じのようにコマーシャルである。人の目を集めて、宣伝広告の媒体とし、その枠を切り売りするわけだ。ヤフーをはじめとして、メジャーなサイトにはだいたい広告が入っている。面白い情報を提供して、人を集めて広告を売るという手法は、全くテレビと同じ「ビジネスモデル」である。


そして、この「ビジネスモデル」という言葉をあちこち追っかけているうちに、私は、「AI」という言葉に似た分裂を感じるようになった。そこで、「AI」と同じ方式で分類できないかと思うと、何となくできそうな気配がある。

それは、

  • A. 「消費者(ユーザ)というものを賢くアクティブな存在と見るか」
  • B. 「消費者(ユーザ)というものをバカで受動的な存在と見るか」

という違いである。前者の見方をする人は「どうやって消費者の知恵をネットワークするか」という発想で、インターネットをとらえている。後者は「消費者をだましていらない商品、サービスを買わせ、金をむしりとる」道具としてインターネットを使おうとする。*オープンソース*という考え方は、前者の極端な例で、これはまだ商売になっていないけど、プログラミングを分担して、必要な機能をディスカッションして、活用法を工夫する、全ての局面でユーザのネットワークをこしらえて、その力でソフトを創ろうとする。後者の例は「プッシュ型」と呼ばれた商品群で、「WEBに情報がありすぎてバカなユーザには探しきれないから、賢い私がおいしい情報を抜き出してあげよう」という発想である。

ずいぶん傲慢な考え方で、実際、プッシュというのはもうバブルがはじけた気配がある。しかし、こういう発想そのものはまだ死んでいないと思う。今は、はやり言葉はポータルという言葉に移っているが、これも根本の発想は似ている。提供者が自分の論理でお膳立てしてあげようという発想で、ユーザより自分たちの方がインターネットをよく知っているという前提条件がある。

マイクロソフトが嫌われるけど、今のところは金を儲けている要因として、この点が関係しているような気がする。マイクロソフトの発想は、言われるほどユーザから遠くへだたってはいない。しかし、マイクロソフトが見ているのはユーザの愚かさという断面のみであり、ワードにしろエクセルにしろ、どんどん「バカなユーザが悩まないように、面倒見てあげよう」という方向に進化している。こういう発想がインターネットを昔からやっている人たちに嫌われるのだと思う。これはユーザの知恵を信頼するかどうかという哲学上の違いなのだ。

私は、根本的な発想としてはもちろんユーザの知恵を信頼しているし、流れは絶対そちらに向いていると思っている。しかし一方で、今現在の一般消費者をそのようにとらえるのは一方的すぎる見方だと思っている。少なくとも、ビジネス、つまり金がからむ場合は、「知恵あるアクティブなユーザ」という最終到達地点と「受動的でバカな消費者」という現在の局面を両方にらんで、中間を泳いでいくことが必要なのだと思う。

このような意味で、PCのタダ配り屋の出現というニュースは、かなり興味深く感じた。この会社は、「画面に常時広告を表示するパソコンをタダで配る」というベンチャーである。一見、考え方は、私の分類で言うと「バカな消費者」派である。つまり、どうでもいい広告を見せて、あわよくばどうでもいい商品を売りつけよう、というテレビのコマーシャルから一歩も出ていないただの広告屋である。しかし、いくらPCが安くなったとは言え、配送やインターネットアクセスも含めて考えると、一人あたり2〜3万円の原価がかかる。これを20社くらいのクライアントが分担しても一人あたり1000円以上の広告であり、どう考えても割に合わない。

そこで、もうちょっと詳しく調べてみると、もうひとつ別の要素があることに気がついた。このパソコンはただ広告を表示するだけではなく、ユーザの動向を記録して収集するわけである。つまり、どのようなプロフィールのユーザがどの広告に興味を持ったか、あるいは、こういう商品を買うユーザはこれをセットで買う可能性が高い、という情報を記録し、ユーザがインターネットにつないだ時に、新しいコマーシャルを押し込むと同時に、そういうユーザの動向を吸い上げて分析するのである。おそらく、メインの商品はただの広告枠ではなくて、それに対するユーザの反応を分析した結果である。そういう分析結果をクライアントに報告して、一歩踏み込んだマーケッティングをしようというものである。

ある意味で、データウエアハウスという考え方に似ている。例えば、私のページには、不登校と*吉本ばなな*というキーワードがある。普通、両者は何の関係も持たないが、私の考えでは、不登校の子供を持った親は普通の親より吉本ばななの小説に興味を持つと思う。吉本ばななは、いろいろなテーマを持っている作家だが、一見すると見過ごしてしまうが重要なテーマとして「家族」あるいは「新しい家族のあり方」「家族というものの本質とは何か」というテーマを持っている。子供の不登校を実際に経験し、これを自分の問題として真剣にとらえる時、吉本ばななの小説は非常に興味深く思えてくる。即物的な言い方をすれば、すごく役に立つのだ。

これは全くの仮説だが、不登校の子供を持つ親をリストアップして、吉本ばななの小説のDMを送りまくったら、全くランダムに配るより、ヒット率は高いような気がする。もちろん、これは私の思いこみかもしれないが、重要なことは、世の中にはそういうちょっと見ただけでは絶対に気がつかないつながりを持つ事物が存在するということだ。そして、これは絶対に提供者の論理ではわからない。どんなに専門知識があってユーザを観察していてもわからない。ユーザの知恵に必死で耳を傾けることで初めて現れてくる事実なのだ。

データウエアハウスというのもそういう発想で、生の売り上げデータを統計的に細かく分析し、いろいろな相関関係をあぶりだす。コンピュータというのは先入観がないので、例えば、通信教育の利用者と吉本ばななの読者に有意な関連があるとしたら、それを正直に報告する。どんなばかなつながりでも、数字だけを見て冷静に報告する。そこに不登校というつながりを見いだすのは人間にしかできないかもしれない。しかし、人間だけでは基になるデータを計算することはとてもできない。コンピュータに支援された人間に初めて可能なことである。

ここまで言ったら深読みだと思うけど、PCタダ配りの背後には、ユーザの行動を分析しようという考え方があるのは間違いない。そこまで深いデータでなく、ただの広告ではいくら安くてもPCの原価はまかなえないはずだ。これは、オープンソースのようなユーザの深いコミットを期待する考えからはほど遠いが、ユーザの声を聞こう、ひょっとしてユーザは提供者の知らないことを知っているのかもしれない、という発想がほのかに見える。つまり、私の分類でいうと、「アクティブな知恵あるユーザ」と「受動的でお仕着せを好む消費者」という2つの分類のちょうど中間を行く発想だと思う。ビジネスとしてみた場合、これが一番正解かもしれない。

このようにインターネットの「ビジネスモデル」というのは、これから、「アクティブで知恵のあるユーザ」という概念をどうやって現実的な商売にしていくかという競争になると思う。そして、それは経済や心理学やマーケティングだけの問題ではなく、技術開発がからむだろう。そして、その開発の方向は「人と人とをネットワークするための技術」に向いていくことだろう。そのような流れは*資本主義*を崩壊に導き全く新しい社会システムを産むかもしれない。資本主義の崩壊は、ビジネスの外側でなくビジネスの最先端から始まるのだ。