対談 今北純一×梅田望夫「欧州の真の力強さとは何か」
味のある言葉にあふれた対談で、現在、私がFirefoxのタブで開いたままになっているいろいろな問題とシンクロしてます。
ヨーロッパで巨大企業のエグゼクティブとして活躍されている今北氏は、ヨーロッパという場の持つ魅力について次のように語ります。
だから、職業を越えて、ビジネスマン同士だけでなく、匠の世界を持つ職人、音楽家、作家、アルピニスト、思想家といった、知的冒険・精神的挑戦を命ある限り続けていく人たちとの間で、深いレベルの共振が起こります。そういう対人関係における選択肢の広さが、ヨーロッパの「懐の深さ」における基軸になっている気がします。
ちょうど、先日あの日にかえりたい。〜東京キャンティ物語〜(関連記事)というテレビ番組で、日本でもこのキャンティというレストランにおいて、そういう凄い人の集るサロンが存在したという話をしていました。ユーミンは15才の時からここに出入りして、多くの人との出会いの中で文化的な素養を培ったそうです。そこには、まさにここで述べられている「深いレベルの共振」があったように思えます。
ユーミンのOLIVEとか時のないホテルのような作品には、「懐の深さ」のあるヨーロッパの香りを感じますが、それは、こういう場がなければ伝わらないものではないかと思います。
ヨーロッパには、こういう超エリート層が厳然と存在しているわけですが、それでは一般庶民はそういう人をどのように見ているか。
次は、まわりがそういう人をどう思うかという問題です。ジェラシーなんてないのです。「彼は別格」という感覚で皆が捉えます。数はものすごく少ないですからね。一人ひとりの個人が自分の小宇宙を持って、自分がやっていることを幸せに感じていれば、ジェラシーにはつながりません。出自も良くて能力も高い人に「お願いします」という感じになる。「私にはそれはできません。でも応援することならばできます」という気持ちを皆が持つようになれるのが「健康なエリートシステム」なのです。
この「彼は別格」という感覚が日本にありませんね。政治家だって、賄賂なんていうものを全く必要としない資産家で、しかも能力の高い人に任せなければならない部分はたくさんあると思うんです。
これは全く私の想像なんですが、ヨーロッパの庶民には「金持ちを飼ってる」というような感覚があるのではないかと思います。
文化的なものが典型的にそうですが、ものすごいお屋敷で生まれて、小さい頃から使用人のいっぱいいる家で、親戚一同も同級生も先生も先輩も後輩も全部エリートという環境で育ち、純粋培養された人でなければ、できないものがどうしてもあります。
全員がそういう育ちかたをするのは無理だし無駄だから、誰かがやらなきゃならない。だから、金持ちにやらしとけ、みたいな意識。専門技能を外注するような感覚で、そういう階層の存在を許している、ヨーロッパの庶民はそんな感覚を持っているのではないかと想像しています。
政治でもビジネスでも、どうしてもそういう人を必要とするポジションがあります。それを育ちの悪い庶民が無理してやるから、貧しいビジネスがはびこるのではないでしょうか。
ジャズ界から干されたい(その2)というこの文章(from 世界の果ての向こう側)で、音楽産業における妙に空しく細分化されたジャンル分けが批判されています。本当にいいものを肌で知っているエリートは、おそらくこういうことはしないと思います。これはビジネスとかITの問題ではなくて、「豊かさ」というものを社会全体としてどう創り出していくかという全体的プランの不足だと思います。
そして、元の対談に戻りますが、庶民もエリートも自足している感覚の基盤として家族のことがあげられます。
第一に、家族があってはじめてパワーが出るということを、皆本当によくわかっています。これが日本では全く理解されませんね。「自分がやりたいことを優先する。家族がその最小単位として機能することが仕事でのパワー発揮の前提である。今やっておきたいことと何十年か先にやりうることは置換できない」という「個としての自分を優先する原則」が、ヨーロッパ人に共通しているということです。
これを裏付けるエピソードとして、ある社長さんがバカンス中に仕事の電話をした時の話。
そうしたら彼の奥さんが「バカンス中に、こんなに長く仕事の話をしなければならないっていうことは、あなたはあなたの部下を全く育てて来なかったということなのね。あなたの責任じゃないの」と大きな声で、彼に聞こえるように、怒り出したわけです。
この怒り方が面白いですが、仕事と家族が相反するものになってない所がいいと思います。
ここ読んで考えてしまったのが、トリッチ・トラッチ: 母親のうつ 社会が育てる子どもに書かれている、次のような日本における母親という立場におかれた人のつらさです。
そしてもっとも大きな原因は、良い母親でいなければならないと言う強迫観念である。これほど辛い思いをしながら、自分が悪い、自分の行いは母親として適切ではないのではないか?生んだ以上は育てなければならないのに、これからちゃんとやっていけるのだろうか?小さい頃にこんな愛情の無い母親に育てられた子どもは、ろくな人間にならないのではないか?知らず知らずに自分を追い詰めている。
この二つの話を比較対象とするのは無理もありますが、おおざっぱに、「家族」という存在の社会の中における肩身の狭さを比べてください。ヨーロッパの社長の奥さんの「妻という立場」がいかにのびのびしているか。日本におけるおかあさんたちの「母という立場」がいかに苦しいものか。
このように、私は今考えているさまざまな問題とシンクロして考えてしまったので、次の今北氏のまとめは、実に心に響きます。
また「個人の底力」という言葉に戻りますが、個人が底力をもう一回見直さない限りダメでしょう。結局は個人の勝負になっていくと思うからです。あらゆる階層の人々が、個人としてモティベーション高く仕事をしていけば必ず底力が出てくるはずでしょう。そして、あらゆるベクトルを持っているのが個人ですね。そういう多様な個の層を分厚くしていくことです。皆のベクトルが同じならば、人数が多くても層が厚いとは言えません。個人のモティベーションを置き去りにして効率だけを追求すれば、殺伐とした中でただただ疑心暗鬼になって、誰かエリートが出たら足を引っ張るというまずい方向に向かってしまうのだろうと思います。
ただ残念ながら、ヨーロッパから見て、日本の政治家にも企業幹部にも、個人としての存在感を感じる相手があまりたくさんはいない。そこに現在のヨーロッパの日本に対するフラストレーションの源泉があるのです。