社会を切っていいんかい?

ニートが一人か二人だったら、僕も説教して働かせようとするかもしれないが、何十万人もいるから「ニート」という立派な名前がつくわけで、何十万人も説教する自信は僕には無い。

社会階層として存在している以上、個別の個人的な理由でなく全員を貫く社会的な理由があるはずだ。それが理由を持って集団として存在している以上、僕の属する階層はニートから影響を受けざるを得ない。僕らの払った税金が彼らの為に使われ、彼らの持つ価値観や世界観によって、僕らのそれは揺さぶられるだろう。

僕にとってそれは不本意だけど、僕はそれを受け入れる。そして、僕らと彼らの間で双方向のやりとりが生まれることを願う。僕らも変化するから彼らも変化してほしい。個人としてニートと接する時に、僕はそういう感覚で相手をするだろうし、社会問題として階層間の葛藤について考える時も、同じ感覚を持って考える。

「社会性」という言葉で、僕がイメージするのはそういう感覚だ。自分たちと違う考え方をする人たちと、双方向のやり取りをしようと思う気持ち。相手が変わる分だけ自分たちも変化する、双方にプラスになるような方向を模索する気持ち。それが社会性だ。

Freezing Pointでレポートされている、『そこまで言って委員会』の出演者には、僕の言う意味での社会性があまり無いようだ。おそらく彼らは期待された役割をこなしているだけだが、視聴者の中にはそれを期待する人たちがたくさんいるのだろう。その人たちは自分が変化することを受け入れない。出演者たちがニートの抱える問題点をどれだけ把握しているかに関心がない。

「彼らの言うことはナンセンスで、自分たちは一切変わる必要がなくて、彼らだけが変わるべきだ。」こういうことを一方的に主張する人のことを、僕は「社会性が無い」と形容する。そういう人は、社会との関わりを拒否していると思う。若い人たちの中にも確かにそういう人はいるが、上の世代にも社会階層として何十万人と存在していると思う。

社会階層として存在している以上、個別の個人的な理由でなく全員を貫く社会的な理由があるはずだ。それが理由を持って集団として存在している以上、僕の属する階層は団塊の世代から影響を受けざるを得ない。僕らの払った税金が彼らの為に使われ、彼らの持つ価値観や世界観によって、僕らのそれは揺さぶられるだろう。

僕にとってそれは不本意だけど、僕はそれを受け入れる。そして、僕らと彼らの間で双方向のやりとりが生まれることを願う。僕らも変化するから彼らも変化してほしい。個人として団塊の世代と接する時に、僕はそういう感覚で相手をするだろうし、社会問題として階層間の葛藤について考える時も、同じ感覚を持って考える。

これは、Time Will Tell:説教と謙虚さを読んで考えたことだ。


頭ごなしの説教や威嚇によって相手が変わると信じることができる者は、今の自分が何によって支えられているのかについて鈍感なのではないかと思う。

ここで、「今の自分が何によって支えられているのかについて鈍感」と言われていることが、僕の言う「社会性の無さ」に近いような気がする。そういう人たちは、おそらく、自分と社会の間でいろいろなものが循環している感覚を失なっている。

僕の世界観は違う。お金や言葉や愛や食べ物や音楽やビット群や他のいろいろなものが、僕と社会の間を循環している。だから、社会と関わる回路はたくさんあるし、社会が変化すれば自分も変わると僕は当然のように考える。

社会と自分の間で、お金しか循環してないのは僕は嫌だ。社会と自分の間で、特定の価値観に基く言葉しか循環しないのも僕は嫌だ。そういう生活は貧しい生活だと僕は思う。そして、それと対極にある豊かさを僕は求めていて、そういう世界観を多くの人と共有したいと思う。

誰かに変化して欲しいと思う時は、自分のこのような世界観を共有してほしいと思うわけで、それを願う以上、自分も変化を受け入れるのは当然のことだ。それが社会性だ。

(このテーマは、自分のライフワークみたいなもので、関連記事を探すとザクザク出て来ました)