希望の国のエクソダス

子どもたちに向かって語る言葉がないということをどれほどの日本人の大人が自覚しているだろうか

希望の国エクソダス」には、暴力もSEXも壊れた人間も出てこなかった。そのかわりに、*村上春樹*風の「見る」男が主人公だった。状況を変えていくとか、状況にのりこんで行くのではないし、状況に的確な分析を加えるわけでもないし、まして次に何が起こるか予測もしない、ただ「見て」いる男。

カウンセリングが本質的にはただ「聞く」行為であるのと同様に、この主人公は状況を、そのまま自分のこころにおさめようとしている。それはつらいことで、頭の悪い人間はスケープゴートをなじることで逃げ、頭の良い人間は分析することで逃げる。彼のような誠実さこそが、子どもたちに向きあう時に最も必要なものだと思う。


ネガティブでも、正確な情報だったら、安心できる場合だってあるわけだからね


メディアは確かに真実が見えないようにしている気がするし、多くの国民にとって真実は見たくないものになっているような気がするのよ


そういう表現は、わかりやすく翻訳するとすべて「うるさい、黙れ」ということになる。ポンちゃんたちはそういうやりとりにうんざりしている


変化というのは基本的に面倒なものですから、変化はあり得ない、と錯覚したほうが楽なわけです

一番痛快だったのが、老人に「自分の一生とは何だったのか」という作文を書かせるというプラン。「まったく楽しそうには見えない」老人たちとは暮らしたくないので、一定の年齢で全ての老人にこのテストを課し、「ぼくらを感動させなかった」人は・・・というUBASUTEなるプロジェクト。このUBASUTEプロジェクトの中学生たちが、日本で一番老人問題を真剣に考えているそうだが、その真剣に考えるという中には、当然のようにしっかりとした経済的な分析がある。介護保険地方財政も崩壊していることが具体的なデータとしっかりとした分析により語られるのだ。

作家には予言する力はないが「ズレ」を感じる力があると*村上龍*は言っていた。東海大地震を予知することはできないが、そこの断層が歪んでいることは観測できるのと同じことだろうか。だから、私はUBASUTE試験の受験勉強を今から始めようと思っている。


彼らは、コミュニケーションが自明ではなく、わかり合えるよりわかり合えないことのほうがはるかに多いということを知っているんですね

私は「真剣」と言うとどうしても、何パーセントかは巨人の星のような真剣さを思いうかべてしまうが、エクソダスの中学生たちは、全く違う方向に真剣だ。そして、しゃべり場の最終回で、激怒して途中退場した談志をむかえに行った子どもたちの真剣さも似ている。彼らもわかり合えないことが多いことを知っていて、話を聞こうとしていた。つまり、この物語は本質的には既に起こっているのであり私はそれを目撃したのである。