『群』としてのメディア

デジモノに埋もれる日々: 実録! 個人ニュースサイトが織り成す「華麗なる波状アクセス」一部始終という記事が面白い。これは、このブログでも何度も経験していますが、実に的確な分析とわかりやすい説明だと思います。


結果的にこうした個人ニュースサイト・ネットワークは、『群』としてメディアの体を為している形になるのです。その影響力は、計り知れないものになるでしょう。

それで、この『群』としてメディアは誰にも操作することはできません。特定のニュースサイトの発信者が自分の読者を誘導しようとすると(例えばケーモー的な難しい記事ばかりリンクしたりすると)、読者が離れ他のニュースサイトからは参照されなくなり、「『群』としてのメディア」からはじき出されてしまいます。

もちろん、個々のニュースサイトは運営者の嗜好や趣味が色濃く反映されているわけですが、「『群』としてのメディア」全体の傾向から大きく距離を置くことはできず、仮想の中心点の回りをたくさんのニュースサイトが旋回しつつ集団で移動しているような形で、ある範囲の中での自由意思しか持ち得ないわけです。

これは、「『群』としての企業」の中心点が景気であるはずなのに、誰もその景気というものを操作できず、誰もが景気に振り回されている状況と似ています。

このように社会的事象の中には、人間の行動の集積であるのに、あたかも人間の外部にある実体のようにふるまって、その人間を振り回す事象があって、そのことを「疎外」と呼び、「疎外」があるから社会的事象は客観的に研究できるのです(と言ったのは、マルクスヴェーバーだと思いますが、どっちか忘れた(笑))。