テレビっ子をテレビ局が逃がしてしまうのは何故か

私はよくマスコミ批判をする割には根っからのテレビっ子であって、見たい番組がなくても、とりあえずテレビをつけてしまうことが多い。

テレビが日々駄目になっていることはよくわかっているので、そういう生活習慣をいつか改めなきゃならない日が来るだろうなと頭では思っているのだが、なんとなくテレビがないと落ち着かないのである。

ずっとそう思っていたのだが、タバコとテレビはやめられないまま、ここまで来てしまった。

しかし、最近、いよいよ年貢の収め時だなと感じるようになった。何となくつけているテレビがどうにも不快に感じることが多くなった。もちろん、不快な番組はいくらでもあったけど、チャンネルをいくら変えても、不快でない番組が見つからなくて、仕方なく、本当に仕方なくいやいやテレビを消すことが増えてきた。

それで、これが案外つらいんですね。生活習慣を改めるというのは、思ったより大変である。何でこんな思いをしてまでテレビをやめなきゃならないのだ、と愚痴が出る。

どうしてこんなに忠実なリピーターである私を、テレビ局は排除するのだと思うのだが、日に日に、目に見えてテレビが不快になってきて、やめることを真剣に考えるようになった。

しょうがないので、Miroというプレイヤーを、ニコレットのような感じで使っている。iTunesのように、登録した番組を自動的にダウンロードしておいて、まとめて見るソフトだ。

たいして面白いものがあるわけではないが、むしろ、どうでもいい番組をボーっと見たいので、適当に短い番組をいくつか登録して、テレビの代わりにこれを見て、お茶を濁している。英語はほとんどわからないのだが、とりあえず何か画面が動いていればいいのだ。我ながらこういうものをあてがっておかないと禁断症状が出るというのでは、ほとんど病気である。

ここまでして意地になってユーザを排除する業界も珍しいと思うのだが、自分が不快に感じるような番組を喜ぶ人もいるのだからしょうがない。

私のように、価値観的にはアンチテレビだけど、体がテレビから離れられない人は、結構いるのではないかと思う。だから、本当はテレビが番組作りの方向をちょっとだけ変えれば安泰ではないか。そう思うのだが、どうも、テレビはアンチテレビの人間を排除する方向に急転回しているように感じる。

それにはこういう事情があるのではないかと思う。

純化の為に、ユーザ層を、テレビ的価値観とネット的価値観で二分して考える。テレビ的、ネット的と言っても、政治的なものからタレントのちょっとした言動までさまざまだが、具体的に何を代入しても以下のことは成り立つと思うので、あえて抽象的に論じる。

世の中が全体としてテレビからネットに移行しているとしても、テレビの傾向がそれに比例して、ネット的になっていくことはあり得ない。

なぜかと言えば、番組をネット的に作っても、それを喜ぶようなユーザ層がテレビを見るとは限らないからだ。想定されるような視聴者は、今では相当な時間をネットに費している。いくらかはテレビに戻ってきても、ネットの時間がゼロになることはあり得ない。その一方で、テレビ的な視聴者は離れてしまう。

一方、テレビ的な番組を作れば、テレビ的な視聴者層は確実に確保できる。

中間を取れば両方取れるかと言うと、そうはいかなくて、むしろ両方逃がしてしまう。

どちらか一つを取るしかないなら、ネット側の人間を捨ててテレビ側を取るしかない。

ネット的価値観とテレビ的価値観の乖離が進んでいくと、テレビは中間に留まっていられなくて、より先鋭にテレビ側の立場を明確にしていくしかないということになる。

いろいろなレベルでこれが進行しているのではないかと私は思う。

だから、私のように頭だけがネット寄りでも体はテレビ的で、総体で見ればネット的ではあるとしても穏健なレベルの人間から見ると、テレビが自分からどんどん離れていくように感じるのではないだろうか。

そこで突然チベットの話になるが、

finalventさんが、中国政府の中に、穏健派(国際協調派)と強硬派の対立があるという見方を紹介している。

もしそうだとしたら、ここにも同じ構図があると思う。

つまり、政府がこの二派の対立関係の上で、危ういバランスを取っているとして、ここで多少人権尊重の姿勢を見せたとしたらどうなるか。

強硬派は離れるのは確実だが、穏健派の支持層となるべき西欧諸国から見たら、なまぬるい誤魔化しとしか思えないだろう。

両方取るのが難しいとして、どちらか一方を取るとしたら、強硬派にすり寄った方が、実があるということだ。

政策の方針変更は、どちらに舵を切るにしてもコストがかかる。同じ角度だけ舵を切るとしたら、それに対する国内、国外の支持の拡大という効果は、大きな違いがある。国際協調に向けて方針変更をするなら、相当急激に舵を切らないと、支持基盤の拡大にはつながらない。強硬派に向いた方が、ずっとコストパフォーマンスがいいだろう。

これは、ネットによって世の中が変わっていく時に発生する事態における、一般的な法則と言えるのではないか。

つまり、ネットによる価値観の変革は、常に周辺から起こり中心へ向かう。

それはゆるやかで連続的な動きなのだが、それに応じて権力のシステムが段階的に移行していくことは難しい。

なぜかと言うと、権力の側から見て、過去と未来が非対称だからだ。

過去と未来のバランスをよく観察していて、過半数が移行した時に乗りかえればよいということにはならない。

未来の側は過去よりずっと分散していてあいまいで不定形だ。それと比較すると、過去の方が形がはっきりしている。

過去から未来に舵を切った瞬間に、自分の足元が消失するような経験をすることになる。過去と未来の両方から強い批判を受けることになる。

だから、むしろ物がよく見えている権力ほど、過去から未来にスイッチするタイミングをつかまえそこなうのだろう。