イノベーションのメインストリーム化という最強のほこ×たて
ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>
ワークシフトという本を読み始めましたが、評判通りいい本だと思います。これから20〜30年の間に「仕事」というものがどう変わっていくか、広い視野で見通してよくまとめてあると思いました。
しかし、一方で、もし自分が10年後にこの本をもう一度読んで再評価したら、たぶん、それほど納得しないだろうな、とも思いました。
それは、これから10年で自分の考え方や感じ方は、すごく変わるだろうなと予想するからです。
もし、今の自分が2012年をうまく総括したと思う本を見つけて、タイムマシンで10年前の自分に送ったとしたら、10年前の自分には理解できないし納得できないでしょう。その本には、たとえばスマートフォンやタブレット等のモバイルデバイスの普及について書いてあると思いますが、10年前の自分は「アップルや携帯電話のことは後でいいから、それよりマイクロソフトがどうなったか先に教えてよ、てか何でそれが最初に書いてあるの?」と言うでしょう。ソーシャルメディアのことには多少興味を持つかもしれませんが、当時の私は「短文ブログ」としてブログの延長線上でしかとらえられないので、やはり、どこかずれた理解になってしまうと思います。
逆に、10年前の自分にウケるような本を探すなり書くなりして届けたとしたら、それは、今、2013年にいる自分から見たら、嘘や間違いはないけど、どこか焦点がずれたおかしな本になるでしょう。
10年前の自分と今の自分が、物事を同じように考えないのと同じように、今の自分と2023年の自分も、なかなか物の見方が一致しないでしょう。だから、今の自分が「良い本だ、素晴しい未来予測だ」と思う本を、10年後の自分が認めるとは、とうてい思えないのです。
つまり、今は、「納得できる未来予測」と「当たる未来予測」の乖離が激しい時代であり、そこに時代の本質があるような気がします。
今は、イノベーションというものが、経済や社会を語る上で、欠かせない重要な要素となっています。そして、イノベーションとは、消費者の価値観を変えてしまうものです。イノベーションの役割が大きい社会においては、消費者としての自分の価値観が変化していくことを一番の前提として物事を考える必要があります。
タイムマシンでチートした未来予測があったとしたら、それは将来において既に変わってしまった消費者の価値観を前提に書かれているので、現在の読者には理解不能な本になるはずです。未来の事実を現在の消費者の価値観で書くことは可能かもしれませんが、仮にできたとしても、実感としての未来の生活を表現したものにはなり得ないでしょう。
10年前の私は、携帯電話については典型的なレイトマジョリティーであり、あまり興味もなくてお金も使いませんでした。そういう自分が、スマフォやタブレットの情報を夢中で集めて、少ない小遣いを必死でやりくりして、最新のデバイスを買い集めているとは想像もできないでしょう。「アップルがネットにつながるモバイルデバイスを出して史上最大の時価総額の企業になる」という予測は、説明の仕方によっては受け入れてくれるかもれませんが、「2012年には、他ならぬお前自身が、最強のアップル信者になっているのだ」という話は絶対に納得できないと思います。
アップルはiPhoneによって、私を含む多くの消費者の価値観やライフスタイルを大きく変えてしまったのです。そこにアップルの利益の源泉があるのだと思いますが、その影響をモロに受けた今の自分を10年前の自分が理解することは難しいでしょう。
逆に言えば、「消費者として自分の価値観は、これからも大きく変わり続ける」という予測は、ほぼ間違いなく当たると思います。
現代の経済は、消費者の価値観を変えるようなイノベーションを起こさない限り、企業が大きな利益を得ることは難しくなっていて、お金というものは、それを常に要求するからです。そして、グローバル経済の拡大で、発展途上国からそこに参加する若者の人数は増え続けています。そして、イノベーションのほとんどが次のイノベーションを連鎖的に起こすような性質を持っているからです。
たとえば、スマートフォンを見て、あるいはツィッターを見て、最初に自分がそれをどう使おうとするのか、ということはあまり重要ではありません。
そうではなくて、世界中で一番野心的で一番頭のいい若者が、それを見てどう思うかが重要なのです。私の価値観を変えるのは、そういう若者であって、スマートフォンやツィッターではありません。いつの時代も元気のいい若者はたくさんいますが、イノベーションというのは、そういう若者たちにとって大きな力になるでしょう。そういう若者が世の中の主流に与える影響力が拡大し続けているのです。
もちろん、若者といっても大半は、私とたいして違いがないことしか思いつかないでしょう。そういう人に多くのお金が流れこむことはありません。私には思いつかないような、私が絶対認めたくないような、とんでもないことを考える若者が例外的にいて、その中にさらに例外的に大成功する人がいて、そういう人の所に大きなお金が流れこむのです。
お金の方が、そういう若者を欲していて、何としても探し出す勢いなので、ほぼ確実にそうなります。
これは、パソコンやネットの出現以来、ずっと加速しつつ継続しているトレンドですが、これが、ここ二、三年で、一つの閾値を越えたように感じます。それは、一般の人の人生設計や社会制度のあり方について、このトレンドの影響を無視することができなくなったということです。
たとえば、テレビは人類にとって実に大きな発明で、社会や経済を大きく変えたと思いますが、その変化は個人の一生に対しては無視できるような速度で進行しました。1960年代にテレビ関係の職についた人は、自分が入社時に予想したようなキャリアパスで職業人生を送って、無事定年を迎えたでしょう。
しかし、2000年代にネット関連の仕事についた人が、今予想しているようなキャリアパスで定年まで過ごせる見込みはほとんどありません。彼の人生は、これから起こるイノベーションに大きな影響を受けるでしょう。おそらく彼の人生では、「ワークシフト」に書かれている「専門技能の連続的習得」という、彼の両親の人生にはなかった要素が大きな意味を持つでしょう。
あるいは、私は、これから「節電」に関するイノベーションが大きく進むと予想しています。全ての電源スイッチがそれぞれCPUやセンサーを持ってネットにつながることは確実ですから、そこに大小さまざまなイノベーションが起こることは間違いありません。凡庸な私に思いつくことは、家庭内で無駄な電気を使っているスイッチは全部自動的に切られるということくらいですが、「元気な若者」たちが競争で、もっとすごいアイディアでドラスティックな節電の方法を考え出していくことでしょう。
長期的なエネルギー政策を考える上で、「元気な若者が何かとんでもないことをしでかして」削減される電力消費の減少分を考慮すべきである、ということは、私にとっては当然のことと思うのですが、一方で、「では具体的に何がどうなって減るのか内訳を出せ」と言われたら、「それは私ではなく将来のイノベーターの考えることであって私にはわかりません」と答えるしかありません。
今はまだ、具体的な見通しのないまま長期的なエネルギー計画をたてるのは無責任だというのが一般的な考え方ということになっています。イノベーションを未来予測に組み込んではいけないことになっているからです。
しかし、ある時点で、イノベーションというものは、社会や経済を考える上での基礎的な原理とみなされるようになって、見通しのない電力消費の削減を元にエネルギー需給計画をたてることがあたり前になると私は思います。
このような意味で、イノベーションが社会の通奏低音となりメインストリーム化しつつあるのだと私は思います。
しかし、仮にイノベーションが常識になるとしても、「消費者の価値観や常識を変える」というイノベーションの本質は変わりません。「予想できないことだけが確実に予想できることだ」というような、ほこ×たて的な常識の転換が起きているのです。