複利で効くイノベーションの中で生きるということ

今日アマゾンで本を注文すると、明日かあさってにはそれが読めるのは、どちらかと言えばアマゾンのおかげというより佐川急便やヤマト運輸のおかげだと私は思う。

つまり、単発の発明品として私たちの生活に影響を及ぼしている度合いを考えると、ネットより自動車の方が大きいように私には思える。

自動車だけでなく、テレビとか原子爆弾等の20世紀の発明品の方が、21世紀の我々の生活に大きな影響を与えている。

ただ、自動車もテレビも原子爆弾も発明されてまもなく、今、我々が見ているものと大差無いものになった。それらが人類に与えた衝撃は大きかったが、それぞれ一回のインパクトを与えただけだ。

TCP/IPもグーグルもtwitterセカイカメラも、それ単体では大した発明ではない。少なくとも自動車やテレビや原子爆弾のように大きな不連続をこの世界にもたらしてはいない。

でも、だからこそ、こういうものの影響を人は過小評価しがちなのだと思う。

単発のライトニングな衝撃では実際には世界は変わらないのだ。

ガソリンで動く自動車のメーカがハイブリッド車を作れたのは、ハイブリッド車とガソリン車の間に不連続性があるからだ。不連続性があるから、ガソリン車のメーカーがゆっくり研究開発して体制を整える時間を持つことができる。

技術が進歩して普通の車の燃費がプリウスのレベルまで改善されるとしても、そのイノベーションが全く新しい仕組みのエンジンでなく燃料のイノベーションでしかもそれが連続的に毎年少しづつ変わる形で起きたとしたら、

毎年10%くらいづつガソリンそのものの品質が良くなっていたとしたら、

自動車メーカーは対応するのがもっと大変だったと思う。

みなさんもよくご存知のようにパソコンは毎年少しづつ性能が良くなっていき安くなっていく。全く新しい仕組みのパソコンが発明されて不連続に変化するわけではなくて、部品の性能が良くなっていくので何の工夫もなく凡庸に作っても、その燃費の向上を享受できるのだ。

毎年、年末には恒例のボーナス商戦があって、そこでは、去年よりいくらか性能がよくていくらか安いパソコンが売られている。年中行事だから、そこに何か大きな変化があるとは誰も思わない。

でも、ある時ふと気がつくと、iPhoneの中でwindows95が動かせるくらいの大きな変化が起きている。10年ちょっと前に机の上に置かれていたマシンより性能のよいマシンがポケットの中に入っている。

何ごとであれ、机の上にやっと乗っていたものがポケットに入るというのは大きな不連続だと思うが、それが、年中行事の中で薄められて忍び寄るように起こるのが、パソコンやネットの世界のイノベーションだ。

21世紀は20世紀より生きるのは楽だと思う。何故かというと、イノベーションが予測できるからだ。まだまだしばらくの間、パソコンと回線の値段は下がり続ける。CPU単体の性能は近く限界がくるのかもしれないが、記憶装置と回線は今ある手持ちの駒だけで、当分の間バーゲンを継続することが可能だ。

もちろん、作る側にとってはそれは気楽なものではない。私もソフトウエアを作る側だから、そちらの立場から考える頭の痛いことがいっぱいある。でも使う側は気楽に待つだけでいいと思う。

ただ、そこで20世紀的に考えるのは間違いだ。

ガソリン車がハイブリッド経由で電気自動車になるとしたら、ガソリンスタンドが充電スタンドに変わる。人はそれを予測する時、「ガソリンスタンドと同じくらいの数だけ全国に充電スタンドができて、そのネットワークが長期間継続して運用される」と無意識に考える。

自動車に関してはそれは大枠で正しいだろう。充電スタンドはガソリンスタンドと同じような社会の重要なインフラとなり、長期間安定して存在し続ける。

ネットは社会を変えるけど、これまでのように安定して同じ形で存在し続けるものを生み出すことはない。

たとえば、これからネットの中に学校ができていくと思うけど、これまで存在していたような安定して継続する学校をネットが生み出すことはない。

あるいは、ネットの中にテレビ局ができるかもしれないが、これまで存在していたような安定して継続するテレビ局をネットが生み出すことはない。

ネットはバカと暇人のものになるかもしれないが、これまで存在していたような安定したバカと暇人は消滅する。

これはものすごく凡庸な予測であるが、多くの人が見逃しがちなことだ。

20世紀の発明品は、不連続と同時に不連続の後の均衡を生み出した。原子爆弾が冷戦を生み出したように。

グーグルが自分の視界に入ってきた時に、グーグルの長期安定支配を想像した人が多いようだが、これは原子爆弾と冷戦の関係をなぞった思考なのではないかと思う。

グーグルができた時からグーグルの足元は揺らいでいる。初期のグーグルが使っていたCPUパワーと記憶容量は、じきにどこの家庭のでも普通に調達できるものになるだろう。

グーグルの強みはグーグルが「グーグル」を独占できることから生まれるものではない。誰もが「グーグル」を手にして「グーグル」を前提として行動するようになった時に、「グーグル」の先を考えているのがグーグルだからだ。

この文の「グーグル」という言葉を「検索」や「gmail」や「youtube」に置き換えると、意味は明確になるかもしれないが、それを私が書いてあなたが読んでいる間にもグーグルは「検索」や「gmail」や「youtube」以上のものに変化し続けているわけで、そして、それが変化した後にもその文章は同じように成立しているわけで、だから、「検索」や「gmail」や「youtube」というよりは「グーグル」と言った方が正確で適用範囲が広いと私は思う。

そして、さらに重要なこととして、ネットのイノベーションは、複利で効く。

トヨタとホンダがハイブリッド車で競争すると、我々は燃費のMAX値を享受できる。

しかし、グーグルとtwitterが競争すると、我々は、両者をかけあわせた結果を享受できる。何かをググって見つけたことをリアルタイムで多くの人にtwitterで配信できたりする。ググられる方と配信する方が競争して少しづつ便利になっていくと、ユーザはそれを掛けあわせた結果の利便性を得ることになる。

そして、グーグルとtwitterとアマゾンがクラウド専用のサーバマシンを大量に発注することで、急速にそういうマシンのコストパフォーマンスが良くなり、セカイカメラのような後発のサービスも間接的にそのコストダウンを享受できる。

ネットが我々の生活に与える影響は、個々の変化のかけ算であり、そして、その個々の変化の中に、あらゆることの単価が毎年少しづつ下がることが織り込まれている。

これが、ボーナス商戦のように、毎年確実に少しづつ起こるのがネットというものであり、21世紀的なイノベーションなのだと思う。

これを20世紀的な単発の不連続なイノベーションとして見ると大事なことを見失うし、過少評価してしまう。

おおよその目安として、ネットは、テレビと自動車の原子爆弾を合わせたくらいのインパクトを10年ごとに我々一人一人の生活に与えるだろう。ただ、それは時間的にも空間的にも散らばって起こるし、測定できるような均衡や構造を作ることがないので、今までの見方で見ようとする人には、なかなかそれは見えてこない。

たとえば、広告費がどれだけネットに移行したかに注目しすぎると、ネットが広告というものの意味を大きく変えてしまっていることには気がつかない。そして、広告に代わる安定した「何か」をネットが作ることはなくて、現時点ではそのわけのわからない「何か」よりは広告の方が確かに存在しているように見える。

当分の間、その「何か」が安定しないことも確実だが、安定しないままこれからも拡大し続けることも確実だ。だから、その「何か」が何であるかを見極めてから行動を起こそうと思っていては手遅れになることも確実なのだ。

「何か」が何であるかがわからないと一切の行動の指針が得られないと思いこむのが一番危険なことである。

こういう世界ではあらゆることが不確実なのだけど、その中には複利イノベーションに特有の法則があって、それを意識してさえいれば、不完全で凡庸な予測であっても充分行動の指針にすることはできると私は思う。



一日一チベットリンク怒りの書店員rainyの怒涛の読書ダイアリー: 読んでみたぞ! チベット文学