危機に直面した組織は固くなる、ハードランディングは避けられない、「友愛」の相手が組織か個人かが問われている
民主党が記者会見を開放するという公約を破っている。関連記事を集めようと思ったら、宮台さんが既にやっていた。
そして、今年の3月24日、ついに小沢一郎民主党代表(前)が、さらに5月16日には鳩山由紀夫代表が、それぞれの会見の中で、筆者の質問に対して、首相官邸における記者会見の開放を約束したのだ。
「わたしは政治も行政も経済社会も、日本はもっとオープンな社会にならなくてはいけない。ディスクロージャー、横文字でを使えばそういうことですが、それが大事だと思っております。これは自民党の幹事長をしていたとき以来、どなたとでもお話をしますよということを言ってきた思いもございます。そしてまた、それ以降もとくに制限はまったくしておりません。どなたでも会見にはおいでくださいということを申し上げております。この考えは変わりません」
会見後、小沢氏のこの「答弁」を引き出した上杉氏の前には、海外メディアやフリーランスジャーナリストらが握手を求める小さな列ができたという。「ありがとう」「素晴らしい質問だった」と称賛の言葉が飛び交った。小沢氏の答弁は、それほど重要なことなのだ。
党の代表が、選挙が近いと言われていた時期に公の会見で二度も約束したのだから、公約に等しいものと言っていいと思う。私は選挙後に上杉氏の記事でこれを知ってかなり驚いたが、案の定、腰砕けになってしまった。
「案の定」というのは、民主党はこういう改革ができる党には思えなかったからだ。「友愛」という言葉を聞いて私はそう思った。
鳩山さんの言う「友愛」は、個人と個人の関係においては価値あるものだが、組織を動かす原理としては全く不適切である。組織は内部の対立軸を鮮明にする方向にリードしないと変わることはできない。
個人を信頼し個人に対して「友愛」の気持ちを持つことは、本当はとても厳しいことだ。記者会見を仕切る人の気持ちになってみると、所属が不明なフリーランスの記者が会見場に勝手に出入りするのは悪夢のような話だと思う。でもそういう個人をあえて信頼するのが本物の「友愛」だ。
口がフリーランスの人間がそこにいて好きに喋ることを許すことは、本当に怖いことだ。しかし、何を言うのかわからないけど、何を言ったとしてもそれに会話で答えようという勇気を持つことが本当の「友愛」だ。
それは日本人が苦手としていることで、日本人はその代わりにその人の所属に対して「友愛」の気持ちを持って誤魔化そうとする。鳩山さんの言う「友愛」にはそういう匂いがする。そうでなければ選挙で勝てなかっただろう。
なぜ、それほどまでに記者クラブが重要なのか? それは記者クラブ制度がメディアのみならず、じつは霞ヶ関にとって、極めて都合のよいシステムだからだ。
「霞が関」と「記者クラブ」と「民主党」という組織同士が「友愛」して、そこに週刊誌という新しい組織が加わることができたが、個人は、はじき出されてしまった。
組織はたくさんの人の集まりだから、環境の変化を認識しそれに対応しよう考える人だって必ずいる。しかし、組織へのプレッシャーが強くなった時に、そういう人が組織をリードできることはめったにない。
むしろ、組織はプレッシャーが強まるとより固くなる。そして、内部の異質な分子を排除しようとする。これは組織の力学の基本的な法則というか本能みたいなものではないかと思う。
民主党にも「霞ヶ関」にも改革派はたくさんいると思うが、外部からのプレッシャーによって、改革派はむしろ力を失なっていく。
その時に「友愛」の相手が組織なのか個人なのかが問われることになる。
組織はメンバーの気持ちが改革に傾いた時に、必ず、その逆の方向に動こうとするものだ。それに勝てるのは個人と個人の間の「友愛」か、組織の上位に何らかの社会システムを置いた時だけで、民主党はそのどちらも拒否している(ように私には見える)。
民主党にはネットに理解のある議員も多いが、これを皮切りにネットが政権への批判を強めたら、組織としての民主党はネットに対する規制の意思を明確にしていくだろう。
組織とはそういうもので、日本人が本気で個人を信頼するようになるまで、何度政権が変わろうが同じことが続く。そういうものだと思う。
このことをもうちょっと現実的なレイヤーに持っていって考えてみると、鳩山政権のキーマンは亀井静香氏なんだと感じる。この点については下記二つのエントリが非常にわかりやすい。
一日一チベットリンク→「聖地チベット-ポタラ宮と天空の至宝-」展に抗議する国際連盟:News » いったいこの展覧会の、何が問題なのか?