アテンションとエコノミーの間
お金とは、「シェアできない」という性質に注目して食べ物を抽象化したシステムではないかと思う。
「システム」と言うとコンピュータを使ったものを思い浮かべてしまう人が多いが、コンピュータがなくても機能しているシステムはたくさんある。
オフィスの机の上に「未決BOX」と「既決BOX」があって、人がそこに書類を置いていくのだって立派なシステムだ。
お金はコンピュータが無い時代には立派なシステムだった。
たとえば、コンビニの店頭におにぎりとサンドイッチを何個づつ置いたら良いのか、ということには、ものすごくたくさんの要素が複雑に絡みあっている。作る側には材料の手配や製造工程でいくつも考えることがあるし、食べる側には、人それぞれさまざまなニーズがある。おにぎりが好きな人もサンドイッチが好きな人もいて、どちらでもいい人もいて、かわりばんこに食べたい人もいて、何でもいいから食えればいいという人もいる。
しかし、おにぎりもサンドイッチも「シェアできない」という性質を共通に持っている。
おにぎりが3個あって私が2個食べたらあなたの分は1個しか残らない。あなたに2個食べさせてあげようと思ったら、私は1個で我慢しないといけない。
お米もパンもうめぼしも、食べ物に関わるものごとは全て「シェアできない」という性質を共通に持っている。
その「シェアできない」という性質を抽象化したらお金になる。
お金を使うことで、社会全体として最適な資源配分ができる。なるべく多くの人が満足できるように、コンビニの店頭にはおにぎりとサンドイッチがそれぞれ最適な個数置かれている。
社会全体として、抽象化された「お金」というシステムを通して、さまざまな複雑な意思決定を行なっている。
「お金」の有効性は疑うべきもないが、一つだけ限界があって、それは、「シェアできない」ものしか扱えないことだ。自動車でも家電でも、「シェアできない」ものには、食べ物と同じように「お金」による抽象化がうまく働く。
しかし、情報はシェアできる。WindowsのインストールCDを私が1枚持っていて、それをコピーしてあなたに1枚渡しても、私の手元には元のCDがそのまま残る。それが情報の本来持っている性質だ。
だから、情報をお金で扱うには、人為的に「シェアできない」というルールを決める必要があった。WindowsのインストールCDをコピーして人に渡すことは人為的に禁止されている。
WindowsのCDは食べ物の持っている「シェアできない」という性質をシユレートすることで、お金で扱える商品になった。
そのシミュレーションのコストが低いうちは、これは良い選択だったのだろう。
しかし、食べ物は「シェアできない」という性質を本質的に持っているのに対して、WindowsのCDをシェアできないのは、単なるルールであって、もともとそれが持っている性質に反する不自然なルールだ。
情報というものが我々の生活の中で重要になってきた時に、本当は、そこに二つの選択肢があったのだと思う。
- 人為的なルールによって情報に食べ物の真似をさせて、お金によるシステムで情報を回す
- お金の代わりに、シェアできるものごとを回す為のシステムを開発する
シェアできないものごとを対象としたシステムに、情報を乗っけるのは、矛盾のある数学のようなものだ。
数学を部分的にいじることはできない。たとえば、1+2の答えだけ4にして、他の計算は全部今まで通りの数学を作ったとしよう。1+2を計算する人は困るかもしれないが、それ以外の人は普通に計算できるから、それくらいの修正ならかまわないように見える。でも、数学というのは、ほんの少しでもおかしなことを認めると全体が崩壊する。
1+2=4だったとして、両辺から1と2を引いたとする。そうすると、左辺は、1+2-(1+2)だから0だ。右辺は、4-(1+2)で、これは普通の計算だから1だ。0=1になってしまう。1=0が成立すると、両辺に好きな数字をかけることで、全ての数字が0と等しくなり、世の中にある全ての数字が等しいことが証明できてしまう。
金融というのも情報を売る仕事で、投資ファンドにお金が集るのは、その情報に値段がついているようなものだ。「あそこが確実に儲かる」という情報がコピーされるのを止める手段はなくて、それが無限に増殖して破綻する。
どれだけおいしいおにぎりが開発されても、おにぎりが「シェアできないもの」である限りは、こういうタイプの破綻は起きない。
情報のような「シェアできるもの」に関する資源配分は、お金とは別の抽象化の仕組みが必要なのだと思う。
コンテンツやメディアやソフトウエアの企業は、儲けすぎるか儲からなすぎるかどっちになってしまう。
儲けすぎるのも儲からなすぎるのも、社会全体としてリソースの配分が狂うから、同じようによくないことだ。そして、どちらも同じ原因で起きている。
「情報」という「シェアできるもの」を、「お金」という「シェアできないもの」にマップしたことで、システムの底が抜けているのだ。何でもありだけど、普通の計算ができない馬鹿な数学のようなことになっている。
「情報」が紙やCDのような物理的な媒体に乗っているうちは、まだ、その無理を押し通すことができたのかもしれない。しかし、ネットによって「情報」が本来持っていた「シェアできる」という性質が表面化してきたので、この矛盾はこれから拡大するだろう。
「アテンションエコノミー」とは、アテンションとお金が連結されることではない。
「シェアできないもの」はお金(エコノミー)で回り、「シェアできるもの」はアテンションで回り、両者が無関係に並立することだ。人間にはどちらも必要だから、二つの世界を半分半分で生きることになる。
「アテンションエコノミー」を「情報でお金を稼ぐこと」と見て、みんなでその方法を模索しているように見える。でも、それは、1+2=4のような矛盾を「シェアできないもの」の世界に持ちこむことであり、ローカルには成立しても、そこから矛盾が拡大して、いずれ破綻する。
「お金」というものの歴史は古いから、この切り替えは簡単な話ではなくて、似たような破綻はこれからも何度も繰り返されるだろう。でも、本当の安定した着地点は、両者を切り離すことにしかないと私は思う。
これまで「お金を稼ぐ」ということが一人前である証とされてきた。お金を稼げることは、「シェアできないもの」の世界の中で、社会に対して何らかの貢献をしている証明になるからだ。その仕事の内容や成果物を個別にトレースしなくても、回り回ってその仕事が誰かの為になっているから、その人はお金を稼げるわけで、その人が高い確率で世の中に貢献していることは間違いないだろう。
それが揺らいでいるのは、「お金」というシステムに対する信頼が揺らいでいるからだが、それは、無理して「シェアできるもの」を「お金」に乗せようとしたからだ。「お金を稼ぐ」ということにうさんくささを感じたり、忌避したりするのは、その矛盾を本能的に感じているからだろう。
しかし、「シェアできないもの」については今でも「お金」は有効なシステムであり、「お金」と「シェアできるもの」を切り離せば、信頼も取り戻せる。
その為には、「アテンションを稼げる」ということも、それだけで「お金を稼げること」と同等に、社会に対する貢献をしているものとみなさなければならない。もちろん、その為には「アテンション」という指標も、もっと整備されるべきだが、そこにおいても、「シェアできないもの」と「シェアできるもの」を切り離す、つまり、「アテンション」と「お金」を切り離すことが前提条件として必要になるだろう。
人は、「シェアできないもの」と「シェアできるもの」を両方とも必要としていて、どちらも、一人で作ることはできない。どちらにもコラボレーションの為のシステムが必要だが、両者を連結しないといけないということは無いと思う。
両者を連結して、「シェアできないもの」と「シェアできるもの」を一括して扱おうとするから、おかしなことになってしまうのだ。
一日一チベットリンク→インド総選挙の成功に思う: Professor PEMA News and Views ペマ・ギャルポ