重なりあうコミュニティの空気とパブリックな空間のルール

SIerというのは、もともと、特定の組織の中で使うコンピュータシステムを開発する会社だった。だから、SIerにとってのお客様は、システムのユーザではなくて、システムのオーナーだ。

その原点から考えると、このプレスリリースが少しだけ理解できる。

弊社が納入しております図書館システムの一部で、大量アクセスによりつながらない、またはつながりにくい状態が発生し、ご導入いただいた各図書館様ならびに一般利用者の方にご心配をおかけいたしました。

弊社システムご利用の図書館様に現在、弊社営業窓口より個別にご説明、ご相談させていただいております。

弊社は、操作性や利便性の向上とともに、インターネットを含めた利用環境の変化への対応など、より信頼性の高い製品作りに今後とも努めて参りますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

企業が最初に目を向けるべき相手は顧客であり、企業内に閉じたシステムを開発しているなら、ユーザでなくオーナーの意向を第一に考えることは間違ってない。この文書が、「図書館様」への説明になっているのは、自分の「顧客」は発注者であるという認識があって、自分がメッセージ発するべき相手は第一にそこであるという意味だと思う。

同じコンピュータシステムでも、ユーザが組織内に閉じているシステムの開発と、インターネットに公開して、外部の一般利用者が使うシステムの開発は、全く違う仕事だと思う。

たまたま、似たような要素(WebサーバやDBサーバやブラウザ)でできているからと言って、この二つを同じ業種と考えてはいけないと思う。

Webサービスでは顧客はブラウザを使って自社サイトにアクセスしてくるエンドユーザだ。システムのオーナーはエンドユーザをコントロールできない。エンドユーザがそのシステムをどのように使うのか、そもそもそれを使うのか他を使うのかを自分で決める。だから、Webサービスを開発している会社は、常にエンドユーザの方を見て仕事をする。

企業内のシステムでは、エンドユーザは、その企業の社員や取引先で、システムのオーナーはエンドユーザをコントロールできる。オーナーは、エンドユーザに「このシステムを使え」「このシステムをこのように使え」と命令することができる。たとえ、一般的な方法と違っていてもオーナー(の代表者)の意向が一番重要になる。

もちろん、使いにくいシステムを強制して使わせるよりは、使いやすいシステムを自然に使わせた方が効率は上がる。だから、どちらのケースでも、使い勝手を良くしたりやエンドユーザの操作ミスに適切に対応することは必要だ。そして、そのための技術やノウハウもほぼ同じものになるだろう。

しかし、企業には、常に顧客の動向に注意を払い、顧客の方を向いて行動するDNAが組みこまれている。その「顧客」が、オーナーなのかエンドユーザなのかという違いは非常の大きいもので、両者は違う業種だと思った方が摩擦が少ない。

問題なのは、SIerが、顧客の為にネットに公開するシステムを開発する時だろう。

この場合でも、まずシステムのオーナーの利益を先に考え、ユーザでなくシステムのオーナーの視点から考えることは正しいと思う。しかし、オーナーの利益となるシステムにする為には、Webサービスの開発者としての視点を持たなければいけない。つまり、オーナーがエンドユーザをコントロールできる、企業内システムでの常識を捨てないといけない。

たとえば、クローラーによるアクセスという、想定されてない行動をエンドユーザが行なった時、どう考えたらいいか。企業内のシステムでは、そのアクセス方法の是非は、企業内の常識で決められる。企業の中には企業の中のルールがあって、それは外の世界とは(無関係ではないが)独立に決まるし、独立に決められる。

しかし、インターネットの中では、その是非は、そのシステムのオーナーの意向とは関係なく、公共のルールで判断される。

さんざん言われているように、クローラーによるアクセスは、インターネットの中の公共的な基準に照らし合わせれば、ごく一般的なもので、何の問題もない。

さすが!と言わせる Plagger徹底攻略術
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たとえば、この本は、「Web上のコンテンツをPlaggerで収集するための基本的なテクニック」を解説している本で、「まったくの入門者」もターゲットにしている。ブラウザ以外のソフトでWebサイトにアクセスすることはごくあたりまえのことなのだ。

このケースそのものは、システムがダウンしたのは、単純にサーバ側の技術的な欠陥であり非常識である。問題となっている欠陥(DBコネクションをセッション上に確保して無条件に10分保持)はお粗末すぎて、話にならない。

ただし、「エンドユーザの想定外の行動の是非がどのように決まるのか」と一般化すると、これは根が深い問題につながっている。

つまり、「SIerがインターネットの公共の常識を知らない」のではなく、そもそも「日本の企業は公共(パブリック)という概念を理解してない」という問題だからだ。

日本では、商売をするということは、「契約によって顧客に価値を提供しその対価を受け取る」ということではない。系列や取引関係のローカルなコミュニティに所属して、その一員になるということだ。

だから、商売に関するルールは、コミュニティ内の空気で決められる。それはパブリックな領域とは随分違う。

  • コミュニティでは問題が起きた時の処置は空気を醸成して事後に決定されるのに対し、パブリックでは事前に成文化された明確なルールに照らし合わせて決まる
  • コミュニティでは誰が行ない誰が判断したかが重要であるのに対し、パブリックでは同じルールが誰に対しても平等に適用される
  • コミュニティでは、コミュニティ内の地位や他のコミュニティ同士の相対的な関係から倫理的な判断が行なわれるが、パブリックでは、同じ行動には常に同じ判断がされる

SIerは非合理的であったり無責任であったりするのではなく、大小さまざまなコミュニティの重なりの中でビジネスが行なわれている、日本の経済システムに適応しており、そのコミュニティに対して責任を持つよう努力しているのである。

そう考えると、次の問題も似た構造があると思う。

東浩紀さんは「パブリックな場でルール破りを自ら表明した」ととらえているのに対し、東さんに批判的な人は「大学というコミュニティの内部で処理すべき問題を、twitterという別の無関係なコミュニティに晒した」ととらえている。

結局、「世の中はパブリックなもので、その中に例外としてプライベートな領域がある」と考えている人と、「世の中は大小のコミュニティの重なりで覆われている」と考えている人の対立というか、世界観のズレの問題だと思う。

「公共空間でカンニングを表明してお咎めなし」が、パブリックな領域のルールだとしたら、そのルールは全ての学生に適用され、誰もが自由にカンニングしてよいことになってしまう。だから、東さんは、この学生のカンニングそのものではなく、パブリックな空間で自ら暴露したことを問題にしたのだと私は思う。

同様に、「クローラを動かしてサーバがダウンしたら逮捕」が、インターネットというパブリックな領域のルールだとしたら、そのルールは誰にも無条件に適用される。そう思う技術者は反発するし、せめて、そのルールの適用範囲を明確にしておこうとする。

しかし、おそらく、岡崎市図書館やMDISにはそういう意識はなくて、「長年の取引実績のある業者と岡崎市というローカルなコミュニティの中で、特定の事件について事後の対処の為の空気を探っている」ということである。そのコミュニティは、岡崎市図書館の利用者や、警察署等の関連する組織や、他の図書館とMDISの関係等の他のコミュニティの重なりあっている。そういう重なりあうコミュニティの中で、適切な対応の為の空気を醸成しようとしているのだと思う。

そして、カンニング問題に関して東さんに批判的な人も、カンニング問題は「重なりあうコミュニティの中で醸成される空気」の中で対処されるべきだと思っている。

要は、「パブリックな空間におけるルールはどうあるべきか」という問題ではなくて、重なりあう大小のコミュニティの外にあるパブリックな空間というものの存在を認めるのか認めないのか、という問題である。

「パブリック」という概念は、西欧では社会を運用する基盤となっているが、日本には根づいてない。そして、インターネットは「パブリック」という概念を、かなりベタに現実化したものである。アーキテクチャそのものがパブリックにできている。

インターネットの中にも、アクセス制限によってプライベートな空間を作ることはできるが、誰がメンバーでどこがプライベートなのか、範囲がクッキリと区分されている。境界が曖昧で重なりあっているコミュニティを投影できるものではない。

インターネットというものは読んで名の通り、ネットするもので、ネットするとは「つなぐ」ということだ。つないでから一部を制限することはできるけど、その制限は常にデジタルだ。
ネットから「自分の気に障る対象が無くなるまで、延々と」ファイアウォールの設定をしたりアクセス制限ユーザを追加したりすることはできるけど、その設定が完成した時には、そのLANは世界から切り離されていて「インター」ネットではない。
インターネットが用意できるアクセス制限は、銀座のどまん中でなければ無人島に一人という極端な選択を強いるものであって、リアルの友人関係のようなゆるやかに閉じられていて微妙に開かれている世界を作ることは苦手だ。

「『うわべ』と『コッソリ』の間を、パブリックとプライベートの境目を」うまく区別できないこと、人間社会の中にあるその構造をシステム化できないことは、インターネットの欠陥であると私も昔から思っていた。
しかし、この欠陥は、待てば自然と技術が進歩して正されるような性質の問題ではないことにだんだんと私は気がついた。
デジタルな情報というのは、コピーすることがローコストであり、しかも、そのコストは年々低下していく。この傾向はデジタル情報というものが根源的に持っている性質である。

だから、企業の中に閉じたシステムを作っていた業者が、ネットに接続するシステムを開発する時は、異業種に進出するような準備と覚悟が必要なのだと思う。パブリックな空間では、パブリックなルールがあるし、パブリックな問題の処理の仕方がある。パブリックな空間に露出することの責任がある。

そして、そういう個々の問題より先に、コミュニティの中だけで生きてきた人には、「パブリック」という概念そのものが飲みこむのが難しい。

トラブルが発生した場合、関連するコミュニティ同士の擦り合せで問題を解決しようとしてしまうのだ。ルールでなく、この問題を調整すべきコミュニティはどこにあるか、というような発想をしてしまう。

ネットでは、オーナーがエンドユーザをコントロールできないし、オーナーとエンドユーザは同一のコミュニティに属してない。そもそも、エンドユーザは特定のコミュニティの一員として接続するのではなく、パブリックな空間から接続してくるのだ。パブリックな空間で許されることは何でもするという前提で考えるべきだ。

これは、オーナーの意向とは関係なしにそうなってしまうものなので、むしろ、SIerが、発注者にネットの公共的な性質というものをよく説明して理解してもらうように努力すべきだろう。顧客の利益を第一に考えるなら、本来はそうすべきである。

SIerが、企業内システム(コミュニティ内部に閉じたシステム)と、ネット(パブリックな空間)の違いを理解しない限り、このような問題は形を変えて再発すると思う。

(付記)

このエントリは、下記のツィートをヒントにして書きました。(ちょっと違う方面に行っちゃったし長くなってしまったけど、確かにそんなことを書きそうだと思ったので)


一日一チベットリンク反中国組織のチベット人2人を逮捕 ネパール - MSN産経ニュース

(追記)

この問題を「IT業界のBto(BtoC)問題」と呼んだらどうかと思いました。