スサノオ神話でよむ日本のネット事情

棒磁石を真ん中で半分に折れば、片方がN極だけの磁石でもう一方がS極だけの磁石になるかと思うと、そうはいかない。両端にS極とN極を持つ普通の棒磁石が二つできるだけだ。

子供をS極だけの人間にすることはできない。磁気単極子を作るというような意味で「子供を教育する」ということはそもそも無理難題である。S極を植え付けることには成功しても、反対側にN極を持つ人間になってしまう。親が自分のことをS極の人間だと認識していても、実は背中にN極を背負っているからだ。「子は親の背中を見て育つ」という格言は、このことを言っているのではないだろうか。

磁石と人間はよく似ていて、ある特性を持とうとすると同時に、その正反対の特性も持ってしまう。自分がいい人であると思えば背中に悪い奴が見えるし、強い人間になろうとすれば背中には弱い人間が現れる。自分は自立しているつもりでいても、背中には依存の顔がある。S極とN極に引き裂かれて両者の葛藤を生きるのは人間の宿命だろう。

ところで、理性的で自律的な人間は、双極性から逃れているだろうか。

理性的で自律的な人間の中では、理性が理性を使っている。使う側と使われる側と二つの理性がある。使われている理性は対象化できてコントロールされているかもしれない。だが使っている側にもうひとつ理性がある。その理性は、本当に理性的で自律的なのだろうか。

スサノオ神話でよむ日本人―臨床神話学のこころみ (講談社選書メチエ)
スサノオ神話でよむ日本人―臨床神話学のこころみ (講談社選書メチエ)

この本は、私なりの表現で言えば「人間の宿命的双極性」について考察した本である。

そもそも自我があれこれを自由に決定できるとか、完全な自立を達成できるとかという見方は、少なからず怪しい。むしろそれこそが、すでに英雄神話と英雄元型に憑かれた自我に特有の考え方なのである。神話のなかの英雄は一般的にいって、勇敢に闘って自分の意思を貫く。そしてみずからを束縛したり支配したりするものを倒そうとする。英雄元型という普遍的なこころの動きのパターンに捉えられると、どうしてもこれこそが唯一の正しいやり方だと考えがちになってしまう。(P38)

「これこそが唯一の正しいやり方」と思わされている時点で、その理性は何かに束縛されている。彼はその束縛から逃げて、「これこそが唯一の正しいやり方」以外の方法で生きることができなくなっている。そこに双極性がしのびこみ、彼の「背中」を形成するのだ。

この本はまた、日本人特有の双極性である「アマテラス対スサノオ」という双極性について語っている。多くの日本人は理性という英雄元型には縛られてなくて、英雄元型の「これこそが唯一の正しいやり方」をうまく相対化できている人も多いと私は思うが、この本によると日本人はそれとは違う形の分裂を持っているというのだ。そのもうひとつの分裂、「アマテラス対スサノオ」という双極性には、いろいろな側面があるが、その中の「汚物」的な要素に私は強い印象を受けた。

彼には、食べた者を反芻する癖があり、気に入らない相手には思いのままにそれを吐きかけるこができたともいう。(P177)

老松氏は「スサノオ元型顕現三人衆」として、宮沢賢治斎藤茂吉南方熊楠をあげているが、この話はその一人である熊楠のエピソードである。水木しげる氏の漫画化の影響もあってか、これはよく知られていて、強く印象を受けた人は多いようだ。(参考: 熊楠 ゲロ - Google 検索)

そしてスサノヲという神様は、アマテラスと喧嘩した時に、熊楠のゲロ攻撃と似たようなことをしている。ちゃんとそれが「古事記」に書いてあるのだ。

勝さびに天照大御神の営田(つくだ)の畔(あ)を離ち、その溝を埋め、またその大嘗(おおにへ)聞しめす殿に屎(くそ)まり散らしき

すなわち、スサノヲはアマテラスの神田を壊した上に、新嘗祭(にいなめさい)を行なう聖なる神殿に大便をまき散らした。(P55)

その結果、こういう行為が「天つ罪」の一つとして認定されている。

糞戸(くそへ) - 祭場を糞などの汚物で汚すこと

「屎まり散らしき」すなわちクソ攻撃という神話が「元型」であり、それが現実の人物に「顕現」すると「ゲロ攻撃」になる。千と千尋カオナシもののけ姫のタタリ神にも、同じような「汚物」的な怒りのイメージが濃厚に反映されていると思う。

日本人の衛生観念は独特であり、近代化の過程で伝染病撲滅等にそのことが有利に作用したと思うが、それは、我々が、印象的な「クソ攻撃」を含む神話を持っていることと無縁ではない。大半の日本人は、表面上衛生的な顔を持ち、汚物に関連する部分を背中に回すのだ。

2ちゃんねるの中に汚物を直感し「便所の落書き」と呼んだあの人は、非常に重要な部分を直感していたのだと思う。日本ではジャーナリズムのあり方が神話的に歪曲されている。もともとの西欧のジャーナリズムには英雄元型から生まれた要素があり、だから客観性や公正さに執着し、論戦という闘いを自分たちの基本的な任務として認識している。それに対し、日本のマスメディアはアマテラス元型に支配されていて、議論や汚物を嫌う。闘いの結果勝ち取った正義や公正さでなく、あたかもそこに最初からあるような予定調和的な正義や公正さとして、自分たちを描こうとする。

これと対照的なもの、スサノヲ的なものを濃厚に持っている典型的な人物は小林よしのりだ。論敵の似顔絵を醜怪に描く彼の攻撃手法は、スサノヲのクソ攻撃のもうひとつの顕現であり、与える効果がよく似ている。こういう攻撃は、アマテラスに支配された人間にとって特に痛撃となるのだ。

アマテラスは、高天原の最高権力者であるが、その権力の基盤というか根拠が非常にあいまいことが、他の神話と比較して非常に特徴的な所だ。

極端ないい方をすれば、彼女の地位は親の七光りの結果なのである。対照的にギリシア神話最高神ゼウスは、父親であるクロノスを殺害し、数々の敵を打ち破ることによってその地位を獲得した。(中略)客観的に見て、太陽神にして最高神という地位は、アマテラスにとっては高すぎるのだ。彼女には何の実績もなかったのだから。にもかかわらず、オギャーと生まれたばかりの時からそれは約束されていた。つまり彼女のあり方は、はじめからきわめて誇大な性質を帯びていたのである。(P63)

日本人は、特に集団心理に突き動かされた場合、アマテラスの誇大妄想から来る「自己愛的人格障害」に影響されると老松氏は言う。つまり他人からの「賞賛」を求めるか、批判を恐れて引きこもるかどちらかになってしまうのだ。

マスコミとネットの葛藤は洋の東西を問わず存在するが、日本のマスコミのネットへの対応は、きちんとした現状認識の上に立っていないように思える。自らの役割を定義する時には、常に良識という言葉に頼り自画自賛的であり、自分たちの失敗を踏まえた反省が見られない。そこには、まさにアマテラス的な誇大傾向がある。

また、マスコミ批判、左翼批判が「マンガ嫌韓流」という形でブレークしたことは、日本人がアマテラス的心性から逃れることの難しさを表しているように思える。スサノヲ的な「ゴーマニズム宣言」は、いつのまにかアマテラス的な「マンガ嫌韓流」に変質してしまった。「マンガ嫌韓流」では、主人公の顔が青春マンガ的な爽やかなタッチで描かれている。作者は多くの闘いを通してあの作品を発表したのだと思うが、その闘いは作品に反映されてない。登場人物は登場した瞬間に「正しさ」の側にいることを保証された存在として描かれている。それがヒットの重要な要因だと思う。

さらに言えば、ブログが輸入された直後の「ブログ VS Web日記」論争の中にも、「アマテラス VS スサノヲ」的論点があったように感じる。スサノヲ的心性の受け口でもあったネットのアングラ的な要素を否認する形で(そういう歴史があたかも存在していないかのように)、「ブログ」は輸入された。「ブログ」は、西洋的な英雄元型が議論する場としてではなく、綺麗で中身の無いアマテラス的なテンプレートとして、日本では受け入れられた。それが「アマテラス VS スサノヲ」的な論点を呼びこみ、論争に感情的な燃料を供給したのではないだろうか。

このように、日本人の集団心理は、アマテラス的なものの影響から逃れることがなかなかできないのだが、そのために、スサノヲタイプの人が発作のように定期的に出て来てヒーローになり、多くの人に強い印象を残す。彼らは、偏ったバランスを修正する為に要請され、それに答えることでヒーローになるのである。

「アマテラス VS スサノヲ」という観点は、以上のように社会現象を解き明かす枠組みとして非常に優れたものである。その有効性はネットが普及した現代でも揺るがない。というより、ネットにはそもそもこういう神話的な葛藤を浮上させる働きがあると思う。

しかし、一方でまた、この問題は非常に個人的な深い問題とも隣接している。

いかりににがさまた青さ
四月の大気のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

(宮沢賢治春と修羅」から)

修羅の怒りとは、たましいが人間の姿を取れるようになる以前の、いわば未生の状態に由来する怒り。人としてこの世に存在することそのものにまつわるような深い怒り。あるいは負い目、あるいは絶望。そういったものなのではなかろうか(P147)

スサノヲは、このようなすさまじい「修羅の怒り」をもまた持っているのだ。そういうものをかかえて生きることは苦しい。誰もがそこから目をそむけたくなるので、それが無かったことにしようとするのである。アマテラス的な先送りと否認はそこから発生する。何も考えずにしたお気楽な決断の結果のように見えて、背後に、そういう暗く深い感情がある。自分はそこから逃げていることを、もう一人の自分はちゃんと知っているのだ。これを無責任と言うなら、自分に対する無責任である。

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