差別が生まれるプロセス

差別が生まれる瞬間」とその補足にたくさんのコメントと言及をいただきました。それについて、私の意図をもう少し説明させていただきます。

「良く考えてみましょう」さんのコメントから


本当の差別というものは誤解とは違って、全く問題が無くても、きちんと謝っていても不当な扱いを受けるものです。

私もその通りだと思います。私はそのような本物の差別がどのように生まれるかを理解したいとずっと思っていて、今回の体験がそのヒントになるかもしれないと考えたので、あのエントリーを書きました。

差別する人というのは、何のプロセスもなく差別する人間になるのではないと思います。先天的に差別をする人間はいないと私は考えています。日常の生活の中で「誤解」や「すれ違い」が特定の形で蓄積することで、そういう本物の差別が生まれるのではないかと私は考えています。

「がりゅう」さんのコメントから


「俺は○○人を差別するわけじゃないけど、○○人って××で困るよなー」という人に色々聞いてみると、結局彼が今までにあったことのある唯一の○○人が困った人だという話だった、ということが何度かありました。こういうときに差別が「生まれる」ということではないでしょうか。

私もそういうことが多いような気がしますが、「あったことのある唯一の○○人」の話を○○人一般の話にスリかえてしまうのは、そこに何か感情的なもつれがあるのだと思います。自分を実験材料にして、このようなプロセスを詳細に観察する機会を提供したいと私は思いました。もちろん、同時に自分もそれについて書くことで理解が深まることを求めています。

そういう意味で、砂上のバラックさんから貴重なコメントをいただいています。


これは深読み、いやそれを通り越して妄想の類なのかもしれないが、俺はessaさんの記事を何度も読み返していてこんなことを思った。実は、この記事は「私」という虚構に語らせたフィクションであり、寓話のようなものではないかという想像だ。


「私」は日本であり、「店員」は韓国、「勘違い」は侵略行為に置き換える。


するとどうだろう、「私」が「彼女」から感じ取る悪意や差別、感情的な怨念はそっくりそのまま、少なからぬ日本人が韓国人に対して感じている思いに当てはまるのではなかろうか。また、過去の侵略行為について罪悪感は感じているが、謝罪の気持ちがいつまでたっても伝わらず、嫌な気分だけが残っているというのも当てはまる。さらに付け加えれば、こちらの謝罪は伝わらず、なおも相手の感情的な怨念は続いていることで、こちらも相手に対して納得行かない思いがつのり、それが悪意へと変わろうとしている姿までもが一致する。

最初は「ええっ?そんな読み方もあるの?」と思いましたが、よく考えてみると、確かに両国の行き違いの感情的な部分にうまくあてはまるようにも感じます。日韓問題に対するこの解釈が絶対的に正しいという意味ではなくて、この観点で見ることで日韓関係に対して若干でも新しいアプローチが可能になるという意味では、同感です。


もしもessaさんがこのような隠喩めいた内容を意図して書いていたとするならば、恐れ入りますとしか言いようがないのだけれど、さすがに深読みが過ぎるだろうか。

もちろん意図はしてませんが、私のエピソードから、こういう問題についての一般的なモデルを抽出できる可能性があるとは漠然と考えていました。そして、ネットで公開すれば、そういう一般性を抜き出してくれる人や、別の問題に適用して展開してくれる人がいるだろうとも思っていました。

そういう私のネットに対する信頼まで含めて言えば「意図通り」です。

私は結論を提示するよりは、論点やきっかけを提供したいと思ってブログを書いています(論点を提供するというより、自分が論点になってしまいがちですが)。このコメントをいただいて、たいへんありがたく思います。

「v」さんのコメントから


もしかして、それとも店員の対応だけでなくessaさん側ご自身の感情も含めて「差別が生まれる瞬間」というタイトルなのでしょうか?

わかりにくかったかもしれませんが、自分としてはそのつもりでした。差別(の種)は両側に起こると私は思います。砂上のバラックさんも、それを示唆しているように感じます。

その為に、「私」が店員だと思っていた人が一般客だったと気がつく所までは、読んでいる方が「私」に対して感情移入して私の怒りに共感していただけるように意図して書いています。そしてできれば、そのまま「あっ」と思った時の私の混乱を再体験してもらって、「差別が生まれる瞬間」を疑似体験していただこうと意図していました。

だから、相手の方を非難しているように感じられてしまう所があったかもしれません。また、相手の方の心の中を描写しているのは全く私の想像です。勝手な想像で書くというのは失礼なことで、そこに配慮が欠ける部分もあるかもしれません。

しかし、状況から言って私の方が一方的に悪いのは自明だと思います。事実を描写すれば、読んでいる人は最後にそういう結論になると私は予想していました。自分を正当化するつもりはないし、相手を非難するつもりもありません。

私は、差別が生まれるプロセスの両側を理解したいと思っています。そして、そのようなプロセスを理解することは、それを正当化することとは違います。

「差別しない人間」が「差別する人間」に変わるプロセスについて説明するということは、「差別することにやむを得ない事情があるから、差別が発生しても仕方ない」と正当化することではありません。また「差別しない人間」が「差別する人間」に変わる可能性について言及することは、その人を潜在的に「差別する人間」として批判することではありません。

プロセスを理解することで、それを止める方法がわかり、それと止めようとする自覚が生まれてくるのですから、まず理解が必要であり、その為に日常的な生活の中でそれについて考えることは必要だと私は考えます。