エビデンスと枠組みは死守するけど数量化と客観性には拘泥しないという手法

アルファブロガーアワードの特色は、投票を集めるけどその結果で機械的に選ぶことはしないことだろう。今回の結果も、寄せられたコメントは全部公開するけど、集計プロセスや投票数などの数字は公開しないらしい。

コメントと選考の不一致があったとしたら、コメントを公開することでツッコミを入れられることになる。だから、コメントをしっかり読んで、その総意としての選考を行ったということに主催者は自信を持っていると考えていいだろう。

これは、梅田さんが、「WEBにある自著への反響は全部目を通している」と公言していることに通じるような気がする。

梅田さんへの批判や悪口はずいぶん読んだけど、これについて「本当に読んでいるのか?」と疑っているものは見たことがない。実は私はちょっと疑っている。

梅田さんのブックマークにはウェブ時代をゆくというタグがあって、しばらくこれを全部読んでいた。面白い記事が多いのだけど、量が多すぎてすぐ挫折した。ここに出て来るのは梅田さんが読んだもののごく一部だそうだから、本当に全部読めるのか?という疑問がある。でも、あの真面目な梅田さんが言うのだから、本当なのだろう。すごい労力だと思う。

梅田さんは梅田望夫論の専門家である。地球上で誰よりたくさん、網羅的に梅田望夫論を読んでいる。修行僧のように集中的にたくさんの梅田望夫論を読んで、それをベースに語る。

語るのは梅田望夫論ではなくて、WEB論だ。

ソナーで周囲を探る時、聞くのは自分が発した音である。それと同じように、梅田さんは自分の発した声の反響を集めて、WEBという世界の地形を探る。

ブログへの投票コメントも、梅田さんの本についてのエントリも、大半は主観的なものだ。書く人が書く人の主観で書き、読む人が読む人の主観で読む。なんの客観性もない。

しかし、ある種の枠組みの中で、誰かがそういうものに全部目を通すと、主観でない別の価値が生まれる。例外なく全部というのがポイントで、ちょっとでも例外を許すと、人は自分の許容量を超えたものをスルーしてしまう。

許容量を超えたものをスルーしない為には、意思の力ではなくて機械の助けが必要で、WEBはそういう種類の機械としては便利で使い勝手がいい機械だ。

数字に集約するというのはむしろ逃げだろう。数字を使えば、許容量を超えたものを全部数字の中に隠すことができる。

全部読んで、全部読んだことを公言し、その結果で主観を語ると、そこにある種の客観性が生まれる。それをしょいこんだ人が許容量を超えた瞬間に何かが生まれて、それはシェアすることができるのだと思う。WEBの中で生まれる価値というのはそういうもので、それを引き受ける「中の人」は必須なのである。