「差別が生まれる瞬間」についての補足

諸悪の根源は物理的 (旧「がりゅう日記」):差別が生まれる構図で、私の差別が生まれる瞬間にコメントをいただきました。

ご自分の経験を元に、基本的には肯定的にとらえていただいた上で、次の点に「違和感」を持たれたそうです。


謝罪する機会はあるだろう。会話を始める時に謝罪できる。虚を突かれて直ぐ用事の話を始めてしまったのならば、最後に事情を説明しても良いし、途中で話を中断して謝罪しても良かったのではないか。ネット上でのコミュニケーション能力に非常に長けている essa さんだが、実生活での情報伝達については少々落ちてしまうということだろうか。この場面で謝るということの方が、今まで彼がブログで纏めてきたコメントの応酬よりずっと簡単そうに見えるのだ。少なくとも僕には。

これは、いろんな意味で鋭い指摘だと思いました。というのは、あのエントリーを書く上で、私が意図的に再構成した部分に対して「違和感」を感じておられるように思えるからです。

再構成というのは、簡単に言って三点あります。非常に細かい話になりますが、重要なポイントだと思うので、なぜ私が謝罪する機会を失なってしまったのかについて、詳しく書いてみます。

まず、私が省略したこととして、この出来事があった日、私は非常に疲れていました。疲れていたというよりメゲていたと言った方がいいかもしれません。精神的なエネルギーがゼロに近い状態で、普通ではありませんでした。

これは疲れてなくても起こり得ることだと私は思いますし、その私の状態を抜きにして書いた方が、テーマがクッキリする気がしたので、表現上の技巧として、あえて、その部分は省略しました。

次に、その店員さんは、私との会話を早く終わらせたかったようでした。コメントで「ヨーロピアン接客プロトコル」「大阪人」という話が出ましたが、東京のデパートは、もともと、感情や本音を隠して上品に接客することをよいサービスと考える傾向があるように思います。

彼女は、そういう意味で東京風プロトコル全開で、「早くこの嫌な客との会話をすませたい」という気持ちが、より本音を隠す方向に向いていました。だから、そこで用件以外のことを話すのは、何となくはばかられる雰囲気がありました。少し誇張して言えば、「せかしてすみませ‥」「ハァ?」という感じで、返り討ちにあいそうな気がしたのです。

確かに、東京風の無駄の無い会話のプロトコルは、冗長性がない分だけ、エラーのリカバリーをする余地が少ないですね。大阪人プロトコルや「ヨーロピアン接客プロトコル」であれば、彼女の方からも、プロトコルを逸脱せずに自分の気持ちを表現する余地があるでしょうし、私の方からも、用件の進行を一時停止させて謝罪の機会をうかがう手段、タイミングがたくさんあると思います。

そのプロトコル的な障壁があることと、店員さんはこの状況を打開するよりは早く用件を終わらせることを希望しているという状況から言って、そこで謝罪につながる方向に会話を持っていくには、かなりの勇気とエネルギーが必要だったように私は感じています。

状況から言って、彼女がそう考えるのも無理がないことだと思いますが、そこを詳しく書くと、店員の態度を批判しているように受け取られるかもしれないと思い、これは、労力を惜しんで省略しました。この障壁を中立的に書くのは、なかなか難しいと思います。

そして、最後の最も重要な問題として、ダブルメッセージに会うと硬直して頭が停止してしまうという弱点が私にあるということがあります。ダブルメッセージとは、顔が微笑んでいるけど内心に怒りがあるとか、歓迎の身振りを見せていて実際は拒絶しているという矛盾した表現のことを指す言葉です。

ダブルメッセージを受けたら誰でも混乱するものですが、生育環境で繰り返しそういう刺激を受けた場合などに、その混乱の度合いがひどく、条件反射的に判断停止が起きてしまうケースもあります。詳しい事情は省略しますが、私にはそういう弱点があると自分では考えています。

現在は、ある程度は克服できていると思いますが、こういうふうに全く予想外の状況で、完全にふいうちのダブルメッセージを受けると、体がというか、気持ちが硬直してしまいます。


この店員から私を見ると、私は、何の理由もなく先着の客より自分を先に処理しろと高圧的に迫ってくる、不機嫌で扱いにくい客だったのだ。

という表現がありますが、このような認識が私の中に起きたのは、実際には事が終わってから随分後のことです。だから、店員さんに不愉快な思いをさせただろうという想像力も、リアルタイムには働いていません。

その場面の本当の私は、店員さんの説明がなぜか異様に聞きとりにくいということしか、自分で気がついていませんでした。その瞬間、私の無意識はダブルメッセージに気がついて、先回りして怯えているのですが(だから無意識に相手の声を自分が遮断している)、私の意識にそれが上がるのはずっと後です。

「相手が隠そうとしている相手の怒りに気がつくことは深刻な結果をもたらす」

私の心には、そういう怯えが深く刻みこまれていて、無意識に、相手の怒りに気がついている自分を抑えこもうとします。でも、現実的な自分は、それに対処しなくてはいけないことを知っていますから、何とかしてそれを意識に上らせて、それを処理しようとします。

その葛藤の為に、行動も思考も感情も一時停止状態に陥ってしまうのです。

だから、私の中のある部分は、まさに書いたような時系列であの事件を経験していますが、別の部分は、何も知らずに会話を終えて、終わってから自分の行動の意味や相手の気持ちに気がついて後悔しているわけです。

ここに書いている説明もよく読みかえすと、多少矛盾していますが、その時の私の状態は、このような矛盾を含んだ説明しにくい状態でした。これは、似たような経験があって、意識化する努力をされた方でないと、理解しにくい所があるかもしれません。

最初のエントリーを書く時に、このことを私が意識していたかどうかも微妙な問題です。問題点を明確化する為に、個人的な事情を意図的にカットしたとも言えますが、がりゅうさんに指摘されてドキっとしたのも事実ですから、完全に意識していたとも言えないと思います。

「違和感」と言われて、「うまく隠したつもりでも、わかる人には『何かがそこにある』ということはわかるものだなあ」と思い、ネットというのは恐いものだなあとも感じました。


どちらが悪いわけでもなく行き違いが起こる。どちらが悪いわけでもなくこじれる。どちらが悪いわけでもなく歩み寄りが見られず、後には不愉快な気分と差別が残る。この連鎖を断ち切ることが出来るのは、結局は事情をより知っている方が(自分の失敗に気づいて「あちゃー」と思っている方が)頑張って自分の知っている事情を真摯に伝えることしかないのではないか。

一般論としてはこの通りだと思います。ただし、今回のことについては、以上のような事情の為に、私の方から事情を伝えるのはほぼ不可能だったと考えています。特に、ダブルメッセージに瞬間的に対応することは、私には困難な課題です。

また、こういう事態に対して私のような反応をする人間がいるという事実が、どの程度共有されるべきか、また、そういう事情が何をどの程度正当化するか、そういう点については、考えがまとまっていません。