予定説資本主義について

「痛快!モヒカン族」については、kagamiさんから、我が憧れのルネサンス −ディストピアからの脱出−という批判をいただきました。上記の問題とも微妙につながるような気がしますが、ちょっと説明します。

kagamiさんのおっしゃる「予定説資本主義」は、私の理解では小室先生の記述とほぼ同じで、おそらくそれはプロ倫でヴェーバーが言っていることなのでしょう。それは「痛快!憲法学」の第5章、6章に書かれていますし、小室直樹の資本主義原論でも触れられています。

その中身がどういうものかと(kagamiさんの表現を借りて)言えば、「無意味な消尽」を含む「言葉」の世界が、「全てを禁欲・労働・富蓄積の三つを目標とする打算に還元する」という「金」の世界に支配されたということで、しいて要約すれば「金で言葉を買える世界」ということになると思います。

私が言いたかったのは、そのような「資本主義」は絶対不変の原理ではなくて、実は「予定説」という「言葉」を根っこにしたエートスによって導かれた、非常にいびつで特殊なもので、いくら確実なことのように見えても、それは脆いものであるということです。

ですから、「予定説」つまり、「(禁欲・労働・富蓄積)を実行する為だけに存在するロボット」をよしとするエートスという「言葉」が変化した時に、かなり深いレベルからこの社会は揺さぶられるということです。そういう意味で「言葉の方が根源的」と言ったわけです。簡単に言えば、私の方がずっと浅いレベルに焦点を当てているということだと思います。

それと、日本においては、(禁欲・労働・富蓄積)に人々をかりたてたのは、キリスト教の予定説ではなくて、天皇教であると、小室先生は分析されています。「神の前での平等」のかわりに「天皇陛下の前での平等」を持ってきた、そういう上位概念を持たない「平等」は、伝統主義の前では無力で、だから、日本以外で「予定説」抜きの資本主義は成立してないと。

たまたま、下記のようなページを発見しました。

このあたりの、正攻法的な正確な紹介、要約は私の手に余りますが、日本の社会をこれまで支えてきた、エートスあるいは日本教が、ぶっこわれつつあり、あちこちで軋みをあげているのは確かだと思います。そういうものがぶっこわれているという話は、これからもプロレス的にいろいろ言っていきたいと思います。