サリエリの教養あるいは永遠のアウエイ

私がオープンソースについて語る時、自信満々で確信に満ちているように思われるかもしれませんが、ぜんぜんそんなことはありません。

確かに、私はオープンソースソフトをひとつ開発しています。外国からもメールが来るうれしさを、 オープンソースなプライドという文章で書いたこともあります。

しかし、私はたくさんのコントリビューションをいただいている割には、それをうまく形にできてない、そういうセンスが無いと自分では思っています。だから、オープンソースについては内部から語っているわけではなくて、かなり近いけど外から見たことを書いているつもりです。

(そういう意味で、八田真行のオープンソース考現学:Talkin' About O. S.を読んで、ひと安心)

もちろん、思想哲学については、さらにいいかげんな理解で書いています。そういう私が教養について語るのは笑止千万だと自分でも思うのですが、教養とは、ひとつには自分の馬鹿さ加減を説明できることではないでしょうか。

「自分は馬鹿です」と口で言うのは簡単ですが、そこに内実と実効性を持たせるのは、結構、大変です。勉強がいります。

サリエリには、自分の才能の無さを理解できるだけの才能がありました。私は、自分の無教養を理解できるだけの教養を身につけつつあると、自分では思います。その中身を言語化できるレベルには至ってないのですが、そのレベルまでは、はるか遠くに見えてきたような気がします。

ここに書く文章は、全てのカテゴリが、私にとってはアウェイゲームです。カテゴリをつけてもどうせ間違えてつけてしまうから、カテゴリをつけてないのです。