一元的価値観という呪縛

ロングテールの意味(意義)を分かってないような言葉の使い方

たくさんいただいた批判の中でも、これは全くその通りだなあと思った。ロングテールという言葉には、明確な意味と文脈がある。

生き方が多様化していて、ロングテール同士がネットで繋って市場を形成できるのだから、仕事の枠組み自体も非常にロングテール化していくはずだ。

言われてみると、これは完全な誤用だと言っていいと思う。

それで、そのあたりに関連した、面白い議論を見つけたので、紹介しておきたい。

流れとしては、池田信夫さんの最初のエントリにロングテールという言葉に関わる問題点があり、R30さんが、山形浩生さんの「ネットワークのオプション価値」という1999年のテキストを掘り起こして、これを援用して批判し、池田信夫さんが逃げたという格好である。山崎潤一郎さんはご自身の関わった事例によって、R30さんの主張を裏付けている。

池田信夫さんが逃げた」というのは言いすぎかもしれない。R30さんの批判に対して、再反論することなく「それは自分でなくマルクスが言っていること」と答えているからだが、確かに最初のエントリでも、マルクスの発言に全面的に同意しているわけではなく、一定の留保をつけている。でも、批判的な引用とも言えないので、そのあたりは微妙だ。

では、マルクスは何て言っていたかと言うと、

資本論』では、未来社会は共産主義とも社会主義とも呼ばれず、「自由の国」とか「自由な個人のアソシエーション」などと呼ばれている。その自由とは、ヘーゲル的な観念的自由ではなく、自由時間のことである。

必要を超えた過剰な資源が利用可能になる社会というのは、非現実的に聞こえるが、半導体の世界では(ムーアの法則によれば)性能が40年間で1億倍になる「爆発的な富の拡大」が生じ、コンピュータは「必要に応じて使える」状態になっている。これによってITの世界では、資本家と労働者を区別していた「資本」の意味がなくなり、だれもが情報生産を行うことができるようになった。

アナロジーがここから先も続くとすれば、マルクスが予告したように「物質的生産の領域のかなた」にあるサイバースペースでは「貨幣の消滅」が起こるかもしれない。

「貨幣の消滅」とは何かと言えば、簡単に言えば働かなくても食っていける社会のことではないかと思う。

たしかにマルクスは、資本主義の矛盾を止揚すれば、すべての人々が「自由時間」で暮らせるようになると考えていた節がある。彼は、計画経済によって市場の「無政府性」を克服すれば、飛躍的に生産の効率が上がり、「富の爆発的な増大」が起こって、資源の稀少性が消滅すると予想していたからである。

池田信夫さんの要約がわかりやすいのでそこから引用しているが、どちらも、池田さんはこの後に引用したマルクスの主張を(半分?)否定しているので、そのへんは誤解なきようお願いしますというか言及したりする時は全部読みましょうね。

お釈迦さまの掌で転がされてる感が強いけど、特に山形浩生さんの分析は1999年のものだということが信じられなくらい見事なもので、アンカテの主張は、発表する8年前に完膚なきまでに論破されていたと言ってもいいのではないかと思う。この議論を読んでいく途中では、池田信夫さんが味方になってくれるのかもしれないと思ったけど、池田さんはスルっと逃げちゃうしね。

でも、そんなことで簡単にくじける私ではありません。なんとマルクスという心強い味方をgetしたみたなので、まだまだ同じことを言い続けますよ。

とりあえずヒントだけ言っておくと、山形さんも「オプションという形では価値が存続している」と言っている。

人間についてすべてが知られることは(当分)ない。したがってそうしたオプション価値が、最終的にきちんと評価されることもない。ある意味でいまのネット社会と称するものは、その不確実性が産むオプション価値によって成立している。情報の伝達効率を上げるとともに、まだ自分に届いていない情報や、情報化されていない部分への期待を拡大したことでネット社会の価値が生まれている。ネガティブなフィードバックは無視すればいい。自分のほしい、都合のいいフィードバックにだけは反応すればいい。

だが、オプションはいつか清算を迫られるもので、その価値は幻のようなものだということだ。

しかし、「必ず清算が行なわれる」という予測には「一元的な価値の体系が客観的な実体として存在している」というような前提があると思う。私のエントリへのコメントを見ていても、思った以上にこの前提は根深く信じられている。

たとえば、音楽好きが二人以上いる所で「世界一ギターのうまいギタリストは誰だ」なんて言えば、たちまち議論が始まって収拾がつかなくなるのが見えていると思うのだけど、「一元的な価値の体系が客観的な実体として存在している」ということは、誰かが検証したことなのだろうか。

それに、私のエントリに強く反論している人がいっぱいいるのに、誰もこれらのエントリを突き付けてこなかったってことも、それなりの意味があると思う。もちろん、見落しがあるかもしれないし知ってても面倒くさいからほっといた人もいるんだろうが、「山形嫁終了」で瞬殺されないということは、なんというか、ブログとかネットというのは広いようで狭いようで広いものだと思う。

「価値の多様化」ということが「価値の多様化」という古い言葉ではとらえきれない新しいフェーズに入っていると思うのだけど、そこにロングテールという言葉を使うのは明白な誤用だ。R30さんが言うように、ロングテールは、「多様化」と「一元化」の間に生まれた鬼っ子のようなもので、明確ではあるけど私が論じているような内容を表すには既に古い概念になっている。

そういう意味では、ロングテールの言い出しっぺであるクリス・アンダーソンの "The Economics of Abundance" というのは気になりますね。