検非違使の末裔がブログを書き始める日
梅田さんのBlog論2005年バージョンの「専門家における日米の気質の違い」のあたりが反響を呼んでいる。
- L'eclat des jours:車輪の再発明(おれ、本当にこの言葉のバカっぽさって好きなんだよね)
- 未来のいつか/hyoshiokの日記:誰がBLOGを書くのか?
- void GraphicWizardsLair( void ); // 「立花隆が「田中角栄研究」を文藝春秋に書いた時、マスメディアは「そんなことは昔から知られている。新しい情報はない」と切ってすてたそうだけど、じゃあ、おまえそーゆー報道をちゃんとしたのか、といってやりたい」
私もここが引っかかった。
磯崎さんからいただいたトラックバックに対して僕が「素晴らしい内容のトラックバックを・・・」というようなことを書いたとき、「磯崎さんが書いていることは専門家にとっては当たり前のことで、そんなこと素晴らしいなんていうのはお前がバカだからじゃねーか」みたいな意味のコメントを貰ったことがある。
こういうコメントを言わざるを得ない「かなりのレベルの専門家」の立場というものが、どこから生じているかということである。
それで、思いついたのが、「日本における組織の中の『専門家』という立場は検非違使の末裔ではないか」という仮説。
検非違使は、令外の官と言って、正規の組織図にのってない役職である。朝廷の組織は、輸入した律令制度がベースになって体系的な組織が作られている。このバーチャルな組織が現実と齟齬を起こした時に、その組織体系を再構築するのではなく、「令外の官」という形で、バーチャルな体系に従わないリアルワールドとのインターフェースが作られた。
歴史ある大企業や官庁のやっていることを外から見ると、非常にバーチャルで閉鎖的な独自の価値体系の中で動いているように見える。特に破綻する間際の組織において、そういう印象が強い。そして、そういう組織では、外部からのプレッシャーが内向性を強める方向に作用して、より環境と乖離したおかしな行動を取ることが多い。
平安朝における検非違使の存在は、この傾向の萌芽のように思える。
つまり、内向的な価値観によってドライブされる組織が、内部の独特の価値観に従わない存在、何らかの物理的な実在や犯罪者や異文化の集団等に接した場合、「令外の官」を設けることで、内的な価値体系の整合性を維持したまま、環境に適応しようとするのだ。
日本における「専門家」というのは「令外の官」であり、優秀な人は「令外の官」のトップとして、律令制度内部へのインターフェースという、非常に微妙でややこしい立場を受け持たされることになる。
私は、梅田さんにコメントした「かなりのレベルの専門家」の中に、そういう立場に置かれた人のジレンマといらだちを感じたのである。
専門家の反対、ジェネラリストというのは、何をやってる人かと言うと、実態としては、律令的な価値観、バーチャルワールドの専門家である。律令的バーチャルワールドという非常に狭い分野に習熟しただけの、こういう人たちがなんで「総合」と呼ばれるかと言えば、それが世界の全てであるからだ。
「専門家」はそういう人たちの集団の中で、「世界」の外から発言してトリックスター的立場に甘んずるか、自分の「専門性」を捨てて内的閉鎖的世界観に迎合するかの、二律背反に悩まされている。「専門分野」を持っていることが彼らの強みであり、ある種の外圧を操作することで、ジェネラリスト集団を動かすことも可能であって、それが彼らの武器ではあるのだが、律令的ジェネラリストは常に反撃の機会を狙っており、「令外の官」という立場をわきまえてないと足元をすくわれることになる。組織としての最終的な意思決定は、律令制度の内部の価値観に基づいて行なわれるので、それをうまく操作できるジェネラリストの方が有利なのだ。
別に権力闘争が好きな人でなくても、「専門家」が「専門家」としての職務を忠実に遂行しようと思うだけで、このような政治的葛藤に巻きこまれてしまうのである。
そして、専門家が外部に対して開かれた発言をすると、「あいつは、一生検非違使でいるつもりだな」と思われてしまうし、それはまだいい方で、悪くすれば「外圧を利用して何か悪さをたくらんでいるな」と疑われてしまう。
平安朝の歴史的事実が我々の心にそれを刻印したということではなくて、そういう世界観が素直に政治制度に反映されたのが「令外の官」という制度なのであって、組織の中での自分の立場をそういう枠組みで見てしまう、日本人の傾向というのは、今も昔も一貫して変わらない。
ただし、日本の組織が、こういう世界に類例の無い特性を持っていることは、むしろ強みであると私は最近考えている。グローバリズム、インターネットというのは、そういう世界のデコボコを平らにして、一様な価格競争に持ちこむ傾向がある。その大波の中で、一律のモノサシにないものを持ち続ける頑固さは、むしろ強みである。
1000年も前の歴史の中に、目の前の倒産に直行する大企業の姿を見ることができるというのは、よいことではないかと思う。このように分析していて、「日本人というのは呪術の中に住む原始人のようだ」と感じることも否定できないが、原始的なのはそういう特性自体ではなくて、それを説明する言葉がなくてプリミティブであることだけだ。日本人のレベルが低いのではなくて日本人論のレベルが低いのだ。
なんとか、このベクトルを逆転して、この経営スタイルを洗練された日本人論つきで輸出できれば、面白いことになる気がする。