三つ子の魂が不惑を越える

私は非常に不真面目な大学生でした。5年間も行ったんですが、何も勉強してない。比喩や謙遜でなく、本当に勉強しないで、サークル活動でバンドばっかりやってました。だから、このブログの中で、あちこちに個人情報に関わることを実はけっこうほのめかしているんですが、専攻だけは明かしてません。絶対に明かさない。恥ずかしくて明かせません。「essaさんは○○大学の○○学部出身だから」と言われるのは、どういう意味でも絶対にイヤ。

たまたま、そういう学生も許される校風(と時代もあるのかなあ)だったんで、語学と体育だけ出席していれば、あとは、一夜漬けで誰かのノートを暗記したりして、どうにか卒業できました。

でも、最初からそうだったのではありません。1年の1学期くらいは、かなり真面目に授業に出てました。しかし、どの授業も面白くなかった。はらわたが腐るくらい面白くなかった。最初だけは、むしろすごく意欲のある学生でいろんな授業に出たのですが、本当にどの先生のしゃべることも面白くありませんでした。

それでまあ、グレたというよりは、醒めてしまって、大学とはそういうもんだろうと思いまして、一転、要領だけでクリアして行こうということになってしまったわけです。

それで、最近、ふと思ったんですが、「自分はいったいあの頃、どんな勉強がしたかったのかなあ?」と。そして、面白いことに気がついたのです。

今、このブログに書いていることが、だいたい、その頃勉強したかったことなんですね。

しかし、当時も今と同じ頭脳と同じ感性(とより多くの時間)を持ちあわせていたんですが、自分が勉強したいのがそういうことだという手掛りは得ることができませんでした。それを教えてくれる先生に巡りあうことはできませんでした。

それが、ブログを書くようになってから、命知らずに他流試合をたくさんやっていくうちに、そういうことがわかるようになってきた。たくさんの先生に、自分が本当に勉強したかったことを教えてもらって、だいぶ頭が良くなりました。

「先生」と言うのは、「自分のこういう記事にこういう言及をした人がこういう本をこういうふうに読んでいる」という情報です。つながりが自分から始まってるから、その本の意味がスパっとわかってしまうんです。意味っていうのは自分にとっての意味ですが、それがあまりにも当たるので、自分はある意味天才かもしれないと思いますが、この能力は大学時代にはほとんど役に立たなかったんですね。

特に学者の卵みたいな人のブログを見ると、「こういう人が自分の学生時代の先生であったらなあ」と思うことが多いです。もしそうであったら、おそらく自分は全然違う道を歩んでいたと思います。生まれてくるタイミング間違えたと思わないでもないですが、40代の自分が20代の自分に勝てると思えるのは、そんなに悪い人生でもないか、とも思います。