私たちでなければ誰が? -- If Not We, Then Who?

悪者探しの心理について考えていて、紛争の心理学のあるエピソードを思い出した。「ワールドワーク」の中の重要なプロセスに「ゴーストの実演化」という手法があって、それを説明する為に、ミンデルがある会議の事例について書いている(p140から)

1990年に、旧ソビエト内の各国からの代表者が集まって会議が開かれた。この会議は雰囲気が最悪で、互いに一方的な声明を読みあげるだけの形式的なものに終始していた。そこで、ミンデルは一種の「ごっこ遊び」を提案する。床に座って次の三つの役割のどれかを演じるように、参加者に依頼したのだ。

部屋の中でそれぞれの役割に対応した場所だけを指示して、誰がどの役割につくかは自由にした。最初は戸惑っていた参加者も、だんだんと意図を理解していき


突然すべては変化した。グルジアの代表者がテロリストの役割を成れ、すばやく部屋を横切り、モスクワ共産党のボスになったのである。彼が「すべての人民はソビエト中央委員会の命令に従わなければならない。と叫んだ。どういうわけか、彼がその場所から権力とランクについて表現するのを聞くと、人々は楽になった。

これをきっかけに場が過熱し、独裁者役とテロリスト役が罵りあいをはじめてファシリテーターは凍りついてしまった。しかし、そこで、


彼らは即興劇を通じて、飢えている市民という新しい役割を創り出し、解決を見い出した。ある代表団の人が、床に横たわり、泣き叫び死を待つ絶望的な飢餓の状況を演じたのだ。

これをきっかけに、さらに場の雰囲気が変わり、全員が「人々の苦しみ」という共通の課題を見い出した。そして、


続く三日間の間に参加者たちは「私たちでなければ誰が?(If Not We, Then Who)という名称の組織を創設して、モスクワに本部を置いたのである

この本には、他にもアイルランドイスラエルで対立する民族の人たち同士を同じ場で話しあわせた事例が出ている。テロで家族を殺された人たち同士が、このような「ごっこ遊び」の中で、何らかの共通点を見出し、少なくとも話をしてみようという気になっている。「悪者」とそれに付随する役割、特に疎外されて苦しむ人たちという図式は、深刻な政治的な対立を超えて共有できる可能性があるということが、たくさんの事例によって示されている。

誰も日常生活では「悪者」にはなりたくない。そこで、一種のゲームとして「悪者」を演じることで、無意識的に共有されている「悪者」のイメージが明確になり、その抑圧が解かれることで、参加している人たちのこころの中が活性化するのだ。

こういうプロセスが無いと、「悪者」のイメージは外部に投影され、果てしない「悪者探し」が続くことになる。現実生活の中で行なわれているそのゲームでは、弱い者や繊細な者や敏感な者がそれを引き受ける所に追いこまれ、やむなく彼らが引き受けた「悪者」という役割への非難は、彼らそのものへの非難とすりかわり、彼らはさらに疎外され、より一層破壊的、暴力的にその役割を背負っていくことになる。

「おかしい子供」と「子供がおかしいといいたがる大人」は、そういうゲームを演じているのではないだろうか。「私たちでなければ誰が?」というモスクワで彼らが見い出したメッセージを見て、自分の中に対立の根を探すというミンデルの手法は、ここでも有効だと僕は感じている。