「反逆」は副作用を伴いつつも少しは社会を良い方向に進めている
世代 | 生年 | 20の時 | 支配者 | 反逆者 | 勃興していたイデオロギー |
---|---|---|---|---|---|
団塊の親世代 | 1912-14 | 1932-34 | 英米と植民地主義 | 大日本帝国 | 大東亜共栄圏 |
団塊の世代 | 1947-49 | 1967-69 | 日本国政府 | マスコミと左翼文化人 | マルクス主義 |
団塊ジュニア世代 | 1971-74 | 1991-94 | マスコミ | 2ちゃんねるとかグーグルとかブログとか | 集団知,Web2.0 |
団塊三世 | 2001-04 | 2020-21 | グーグル | ?(携帯かP2Pベースの何かかな) | ? |
(団塊の世代と団塊ジュニアの世代区分はWikipediaによる)
こうやってまとめてみると、どの世代も前の世代における反逆者が支配者となっている中で成人した(する)ことになる。
1932年(昭和7年)とは満州国建国の宣言があった年で、1933年(昭和8年)はアドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任した年。英米仏中心の植民地主義に日本とドイツの枢軸国が対抗するという枠組みが明確になってきた時ではないだろうか。この頃成人した人たちは、英米中心の植民地主義に対抗する勢力として大日本帝国に期待し、それを心のよりどころとしたのではないか。
その日本は敗戦によって大きく変化したが、「国民国家」に対する一定の信頼が残る中で、彼らの子供たちが成人し、彼らはその反逆のよりどころとして、マルクス主義やカウンターカルチャーに自己のアイデンティティを見い出した。
1967年の美濃部東京都知事当選、1969年東大安田講堂占拠の学生排除等で表面化した、時代の気分としての左翼思想に対する信頼が、その後のこの世代の、マスコミへの盲目的信頼につながっているように思う。
それがマスコミの一極支配とその暴走につながって、それに反逆する者としてのネットへの信頼(=マスコミ不信)が団塊ジュニアに共通する気分である。(ちょっと年代的にはズレるが、それだけ精神的に成人する時期が遅れているとみなして)
そして、団塊ジュニア世代が30前後で子供を産んだとしたら、彼らが成人する時には、(「Web進化論」の予測に従えば)全盛期のグーグルによって支配された世界を見ることになる。彼らは、親世代の盲目的、気分的なネット(集団知)への信頼に不信を抱くだろう。
ちょっと意地悪く形式的にまとめれば
- 団塊の親世代は「アンチ植民地主義(鬼畜米英)」で思考停止した世代
- 団塊世代は「アンチ国家」で思考停止した世代
- 団塊ジュニア世代は「アンチマスメディア」で思考停止している世代
- 団塊三世は「アンチグーグル」で思考停止する(可能性が高い)世代
ということになるだろう。
「結局、みんな親に反抗して子供を押さえつけているという意味では人類は進歩してない」と見ることもできるが、それぞれの時代における「反逆」は少しは社会を良い方向に進めている。多くの副作用を伴いつつも、人権や言論についての状況は長期的には良くなっているのは間違いない。
しかし、これは「反逆者」が「支配者」になった次の世代からは、評価しにくい点だ。「反逆」ということのリスクに実感が持てないからだ。
今起こっている「ネットによるマスコミ退治」も、20年もしたら同じように評価されるだろう。
このような世代間の価値観の交換可能性について考えてみることで、多少は冷静に物事を見ることができるかもしれない。
結局、「反逆」では悪者を根絶することはできない。悪い奴はどこかに居場所を見出してしまうのだ。「反逆」に過大な期待をすることはよくないけど、でも、それによって少しは世の中は風通しがよくなって住みやすくなる。だから、必死で「反逆」をすることの価値も、ちゃんと認めるべきだと思う。
(追記)
偶然だけどこれに対する回答になってる気がする→痛いニュース(ノ∀`):【論説】 「『盗んだバイクで〜』 尾崎豊の歌、最近の若者は受け入れず…体制や大人への反抗心はどこへ?」…朝日新聞
これを見てて、こんなことも書いていたのを思い出した→アンカテ(Uncategorizable Blog) - She's not leaving home