ツッコミビリティとオープンソースジャーナリズム

ずいぶん前から、オープンソースジャーナリズムということを考えている。市場メカニズムと同じような「神の見えざる手」がネットにもあって、これがおのずから真実を明らかにしていくという仮説だ。

市場メカニズムとは、みんなが大勢で集まってそれぞれが儲けようとしていると、全体の生産量が最適になるという法則である。重要なことは「みんなのために自分を犠牲にしてがんばるぞ」という偽善的な奴はいらないことだ。むしろ、そういう奴は邪魔になる。市場の参加者に求められることは「経済的合理性」である。偉そうな言葉だから「すみません。そんな立派なものは持ってません」とビビってしまうが、遠慮することはない。1円でも安いものを選ぶのが「経済的合理性」だ。欲の皮がつっぱった奴がおのれの欲望のままに行動してくれれば市場は成り立つ。市場が成り立てば、国全体で世界全体で資源が最も有効に活用されるという不思議な法則なのだ。

オープンソースジャーナリズムも、みんなが大勢で集まって井戸端会議をしていると、自然と物事の真実が明かされていくという法則である。やはり「みんなのために自分を犠牲にしてがんばるぞ」という奴はいらない。参加者は欲望のおもむくままに好き勝手なことを言いあえばよい。それだけで真実が浮かびあがる。ネットでは全体としてこういう現象が起きていて、2ちゃんねるやBLOGというのは、それを濃縮したものだと思う。

両者の共通していい所は、人間の欲望を肯定していてこれを抑制したりコントロールしないですむことだ。個人が好きなことをしていると社会全体としてプラスの結果が起こるようになっている。こういう仕組みは長持ちする。

これについて、俺の言いたいことは3つ。まず「こういう現象が厳然として存在する」と言うこと。特別な頭脳や装置がなくても、普通に曇りのないまなこで見れば、これがあることはわかると思うのだが、この現象を見ようとしない奴がいるので、「あるものはある」と言いたい。あるものをないことにしないでほしい。

ふたつ目は、この現象を長持ちさせて活用したい、ということ。市場メカニズムはいろいろ具合がいいことがあるが、タダでは手に入らない。ルールやインフラがないとつぶれてしまう。維持するための努力は必要だ。価格に関する情報が行きわたり、公正な競争が行われていないと市場は機能しない。オープンソースジャーナリズムあるいはネットも同じだ。当然、物理的な回線と端末がないと働きようがないが、それだけでは充分ではない。それが何かはわからないが、社会的な合意のもとでのサポートを必要とすると俺は思う。

それが三つ目につながる。俺はこの仕組みのメカニズムを明らかにしたい。オープンソースジャーナリズムが成りたつための条件とはなんなのか。当然、仕組みがわからなければサポートするために何をしたらいいのかわからない。

ツッコミビリティという言葉は、こういう目的からひねり出した言葉だ。市場メカニズムの解明において価格という指標が重要な役割をように、ネットという混沌から真実が浮かびあがる過程の中に、ツッコミビリティという言葉で表現されるひとつの属性が鍵になっているような気がするのだ。「ツッコミビリティに多くの目玉が引きよせられツッコミビリティを再生産する。」そのような形で、このメカニズムを表現できないものだろうか。

ひとつはっきりしているのは、市場メカニズムは多様性を必要とする、ということだ。腹がへった時に、ラーメンがあってうどんがあって定食屋がある。マクドナルドがあってモスバーガーがあってもちろん吉野屋がある。いろんな食いものがあってこそ、資源の再配分が最適化されるのである。

同じように、オープンソースジャーナリズムにとっても多様性は非常に重要なキーポイントだ。2ちゃんねるに良質な情報が集まるのは多様性が抜きんでているからだ。AAがあってコピペがあって煽りがあって荒らしがあって、論理があって考察があって偏見があって直観がある。もちろんエロとバカもある。テキストという媒体で考えられる限りの多様性があるからだ。多様性の中でツッコミビリティという価値が生まれてくる。

だから、ツッコミビリティという言葉も正確な意味は定義はしない。この言葉が気にいったら、どんどんforkして好きに使ってください。(しいて言えば、欲望と多様性を肯定する方向で使ってほしくて、何かをけずったり反省したりするためには使ってほしくないけど)