administratorが哲学する
赤ん坊の頭の中の配線をちょっといじって、目の中の「赤」のセンサーから出てる線を「青」から出てる線とつなぎかえたとしよう。この子が生きていく上でどんな支障があるだろうか?我々が「赤」として認識するもの全てをこの子は青として認識する。彼には血の色も赤信号も青に見えるわけだが、彼はその色のことを「赤」として教わることになる。それが青に見えるとしても、その色を疑いもなく「赤」と呼ぶだろうし、やはり血の色と同じ色の信号が危険を意味することには納得するだろう。だから、生活上も細い心理的な反応も我々と同じになり、何の問題もなく成長して行くだろう。
というより、こういうことが起きているかどうかは頭の中を開けて配線をチェックしない限り、外部からは識別不能である。実際には、脳のしくみは「ここに何の機能がある」と簡単に言えるようなものではなく、中を見たって(少くとも現時点では)誰も、正しい配線と間違った配線を区別できない。俺は子供の頃、自分がこのような意味で頭の中の配線が人と違うのではないかと悩んだことがある。外部の刺激に対する反応の総計としては、特別おかしいことはないのだが、実は頭の中で起きていることが他人と全く違う人間。あるいは、同じ世界で同じように生きいていても、内的な経験としては全く異質な経験をしている人間。俺は、実はそういう人間ではないかという一種の妄想だ。大人になって、無事この妄想を脱したかと言うと、そうではない。より妄想が強化され、俺一人が異質なのではなくて、人間というのは、内的な経験としては各人がそれぞれ個別の全く独自の経験をしているのだ、という結論に達した。
実は、自分がおもりしているサーバがクラッキングにあうと、これと似たような状況に陥いる。サーバの設定が不正に書きかえられたのを発見して、あわててそれを直したとする。そして、他にいじられている所はないかチェックする。しかし、この「チェックする」という作業が何を意味するかと言うと、あるコマンドを入力して、その出力を以前のもの、あるいは他の正常なマシンの出力と比較するのだ。例えば、見なれないプログラムがないかファイルの一覧を表示して調べる。しかしクラッキングされたマシンでは「ファイルの一覧を表示する」というコマンド自体がクラッカーにいじられてないかを疑わなくてはいけない。ちょうど、血の色と赤信号を見せて「この2つは同じ色ですか?」と質問するようなものだ。刺激に対する反応だけでは、問題があるのかないのか判別できないという状態になる。
慎重な管理者は、外部からの刺激に対する反応だけでそのマシンの状態を判断したりはしない。基本的に一度やられちゃったマシンは全てを疑ってかかる。ファイル一覧を表示したら、それが嘘の一覧だという可能性をまず考える。バックドア(クラッカーが再度侵入するための手がかりとなるプログラム)を隠して、それ以外の一覧を見せているかもしれない。だから、一度マシンを初期化してインストールしなおさないと安心しないのだ。
科学的あるいは論理的な態度とはこういうものだろう。人間にある刺激を与えて、その反応が同じだからと言って、中で起こっている反応が同じものだと決めつけちゃまずいだろ。もちろん人間は再インストールすることができないので、有能なサーバ管理者のように確信を持って人間を扱うことは一生できない。コストパフォーマンスを考えると、あなたと私が同じ経験を共有していると仮定する場面があるのはかまわない。しかし、それが仮定であることを忘れてはいけない。
俺が大人になって強化された妄想の一つに、俺が経験している時間の流れは正常な方向なのだろうか?という疑問がある。実は、俺の意識は時間の流れの中を他の人と逆に進んでいるのではないかということだ。時間を逆に進めば、例えば音は逆になる。俺が「じかん」と言う時、みんなは「んかじ」という言葉を聞く。しかし、生まれた時から「んかじ」「んかじ」と言っていれば、それがあたりまえだと思うだろう。同じように原因の後に結果がくることや、人間が赤ん坊から老人に向かって年をとることや、重力が物を引きよせる力として働くことは、あたりまえのことだと俺は思っている。それは何らかの論理的な思考の結果として思っているわけでなく、ずっとそーだったからそーゆーもんだと思っているだけだ。これを逆向きに経験していたら気が狂うような気がするが、実際に最初から目にするものがそうだったら、やはりそーゆーもんだと思うかもしれない。目の前にいるあなたが、同じ電車に乗っていると俺は思っているが、実はあなたは対向車の方に乗っていて、一瞬すれ違っているだけかもしれない。「そんなことは絶対ないよ」とは誰にも言えないのだ。
意識あるいは経験というものは、 *宗教*的に考えるのが科学的(論理的)な態度であると俺は考えているのだが、それは以上のような理由である。俺は、administratorをやる時は手抜きすることもあるが、プライベートなことでは手抜きをしない主義なのだ。