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TVタックルに、元医者の変なおじさんが出てきて面白いことをたくさん言っていたが、ひとつ印象に残ったことがある。「医者というものは昔は、ほっとくと死ぬ場合に行くものだった。ところが、今は健康というのは非常に狭い強固なイメージがあって、そこからちょっとはずれるとすぐ医者に行く」

つまり昔は、「病気」というのは死の回りにあるごく限られた範囲を指していて、それ以外は全てが健康、だから、病気の領分が狭いだけ健康というものには多様性があった。しかし今は逆で、健康というのがいろいろな情報によって作られたごく狭い範囲に閉じこめられていて、ひととおりしかなく、逆に、病気の方が多様性がある。

こういう歪んだ見方を体にあてはめるだけでも随分罪なことだが、最近はこころの問題にも同じことをしようとしている。バスジャック事件の少年の入院と外出という処置は適切だったのかどうか、ここ2、3日ニュースで随分やっているが、普通じゃない精神のあり方を全部医者の領分におしこんでしまうというのは無理だと思う。

ある精神科医が「本当の病気の人にはああいう犯罪はできません」と言っていた。つまり、彼は緻密な計画をたて自分をしっかりコントロールして医者をだました。そういう秩序だった行動がとれないのが本当の「病気」であって、精神科医が習ってきたのはそういう病気の直しかただけだ。それ以上のことにも取り組む人はいるのだが、それは学校で教わったスキルでなく一人の人間としてぶつかっているわけで、その場合には、医者でなくひとりの人間としての度量や感度で勝負している。それができる人とできない人がいるのは当然だ。

できる医者もできない医者もそのことを正直に言うべきだと思うが、それより問題なのは、そういう発言を許さない世間一般の方だと思う。つまり、正気で無差別理由なし殺人を行うという人間のあり方を認められないわけだ。しかし、戦争になって兵隊に取られれば同じことをする人はたくさんいる。つまり本当の問題は行動の正当性でなく、同じ「正気」を共有しているかどうかだということだと思う。

もちろん、あれは大変な悲劇であるのは間違いないが、彼にとっては正気の行動だった。正気で彼をああいうことするという所まで追いこんでしまった状況を全体として問題にすべきである。