「28才」と「景色」

どちらも10年以上前の曲なんだけど、今年、2000年になって何を表現したのかわかってきたような気がする。テーマは「日常」「圧迫感」「狂気」「破滅」。やっぱりミュージシャンっていうのは、無意識に何かを予感していたのかあ。

ポップスっていうのは、何かが抜けてたりズレてるからポップスだと思うが、PSYS'Sの「景色」という曲は全てが完璧なのにはっきりポップスである、という不思議な曲だ。最初からリズム、曲、ハーモニー、アレンジ、全てが完璧であって、緻密に組み合わさっている。その緻密さの中でDINKSっぽい若夫婦の日常が歌われていく。聞いてみればわかるが、完璧なポップスというのは少しも楽しくなくて息苦しいものだ。息苦しい日常がえんえんと続き、四方を岩に囲まれているような圧迫感を感じさせる頃、エンディング近くで突然奇妙な和音が産まれる。ただ、奇妙なアレンジは滑らかな金属の表面のように完璧に繋がっていて断絶感はない。そのように、日常から一切の断絶なしに狂気に至る。そして、その時点から歌詞は異世界に突入してしまった彼らの視点になっていて何が起きたのかはわからない。聞いている者は、崩壊したアレンジのすさまじさから、その破滅ぶりを想像して身震いするだけだ。

レピッシュの「28才」は、28才で離婚したサラリーマンが30才で完全に気が狂うまでの物語。こちらは多少は事件らしきものがあるのだが、結末を予感させるような大事件ではなく、十分ありえる事件。スカの単調なリズムにのって、そのちょっとした事件のあらましが語られていく。レピッシュお得意の疾走感が、どんどん狂気へと追いこまれてゆく主人公を見事に表現している。ジェットコースタームービーのように破滅へと突進していく。

どちらも、聞いていてあまりいい気持ちのする曲ではない。なのに、何だか気になっていた。何かが自分の毎日と共鳴しているような気がした。それでなんども聞いては後味の悪さをかみしめたものだ。

今だから言えることだが、これは数学で言う、背理法による証明みたいな表現かもしれない。背理法と言うのは、ある条件から必然的にあり得ない結論を導きだす証明。結論があり得ないから、さかのぼって最初の条件が間違っていたという論理だ。

どちらも、曲の頭が日常でそこからエンディングの破滅と狂気への過程を描いた曲だ。最初に問題がなくて最後には問題があるから、その過程にどこか無理があるはずだ。しかし、過程には何も無理がない。その無理のなさが、ミュージシャンとして自力でもって見事に表現されている。過程に無理がないとしたら、最初にあるものが何かおかしいことになる。その最初にあるものが、90年代の日本の日常なのだ。

つまり、何も問題のない日常に何か問題がある。この日常の中でのんきに暮らしていると、とんでもないことになるよと言っているのだ。そういう圧迫感のようなものが最終的に表現されるテーマである。この圧迫感のようなものは、当時、私もかすかながら感じていた。しかし、エンディングの爆発は見えてなくて、これはただのフィクションなのだと思っていた。しかし、彼らは手に取るように感じていたのだろう。このまま我々が必然的にたどる道筋を。

そして彼らが本能的に予感した破滅のようなものが、とうとう我々の目の前に現われたのかもしれない。