シャッフル再生と私

私は、音楽を聞く時はほとんど常にシャッフル再生で聞く。先日、「いったい自分はいつからこういう聞き方をしてたのだろうか?」と考えて、それが70年代前半であることに気がついた。

「嘘をつくな!」と思った人が多いだろう。1970年代は、アナログレコードとカセットテープの時代で、当然ながら、シャッフル再生などという機能はない。

そのとおり、当時は、自動的にシャッフル再生してくれる便利な機能はまだない。それが出現するはるか前だ。

しかし、私は、マニュアルでシャッフル再生をしていた。

どうやるかと言うと、新品のカセットテープと自分の持っているLPレコードを全部、目の前に置く。そして、目に止まった盤の目に止まった曲を一曲だけ録音する。そしたら、それをしまい、残りのレコードから、また、たまたま目に止まったものを取り出し、一曲だけ録音する。これを繰り返して、90分なり120分のテープを埋める。こうやって「自分ベスト」のテープを何本か作って、それを聞いていた。

「自分ベスト」を作る人は、音楽好きなら、そこそこいたが、私が他の人と違うのは、なるべく自分自身が曲順を覚えないように、その場の思い付きを重視して選曲していたことだ。

私が目指していたのは「次に自分の好きな曲がかかることはわかっているが、何の曲がかかるのかは、曲が始まるまでわからない」という状態で音楽を聞くことだった。

同じテープを何度も聞いていると曲順を覚えてしまうので、そうするとまた、それを上書きして、新しいバージョンを作っていた。

ものすごい手間と時間と集中力が必要な作業なのだが、「あの作業でいったい自分は何をやっていたのか」と考えて、それが「マニュアルのシャッフル再生」だったことにある日気がついた。

だから、iPodを買って「シャッフル再生」という機能があることを知った時には狂喜して、その時からずっと僕のiPodは「シャッフル再生」のままだ。

それどころか、このこだわりはより先鋭化し、ついにはシャッフル再生で音楽を聞くためのソフトを作ってしまった。

なんでここまでそれにこだわるかと考えると、「コンテキストから剥ぎとられた生の音楽を聞きたい」ということだと思う。

実際、シャッフル再生をしていると、何度も何度も聞いたはずの曲を、全然違う曲として再発見することがある。

水が入っていると思ったコップにコーラが入っていて、知らずにそのまま飲むと、生まれた初めて飲んだコーラの味がすると言うが、たぶん私はそれをしたいのだろう。

先日も、念入りにレート別の選曲確率を調整した自分のプレイリストをシャッフル再生で聞いていて、めったにかからないこの曲を再発見した。

先に曲名を言われると、自分にとってのコンテキストがべったり貼りついていて、曲が始まる前にいろいろ考えてしまう曲だ。

チューリップは中学生の頃よく聞いていたが、高校に入った頃から、自分の中ではオワコン化し黒歴史化したバンドだ。それでも時々、こっそり聞いていたが、いくつかやっぱり名曲だなあという曲が他にある中では、さらに一段ランクが落ちる、というような、自分が過去に下した評価にとらわれてしまう曲だ。

しかし、そういう記憶や評価をローディングする間もなく突然聞かされてみて、なかなか軽くていい曲だと思った。

というか、「名曲に逃げない」という彼らの意地のようなものを感じた。

ポップスをやってるアーチストが「時代を超えて愛される名曲」を書くというのは、逃げだと思う。実際、財津和夫も何曲か書いているが、書いてみて彼は「これは違う」と思ったのではないか。

ポップスの王道は「街でかかる曲」であって、後々まで家で聞かれる曲というのは、もちろん価値が無いとは言わないが、彼らにとっての主戦場ではない。

腰が入った本気のポップスは、名曲のようにでしゃばらないので、それを聞いた人それぞれのその瞬間の「自分」がその体験の中に同等にしまわれていく。だから、曲はそのまま過ぎ去っていかなければならない。

「心に残る曲」と同様に「過ぎ去っていく曲」にも価値があり、そういうタイプの名曲もある。「風のメロディ」の後味の良さは、ちょっとただごとではない。一種の名人芸だ。


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