不可逆?非可逆?なことについて

茶碗をひっくり返してしまったら「我が家ではこんなふうにテーブルにお茶がぶちまけてあることはない」とか「お茶はテーブルの上でなく茶碗の中にあるのが正しい姿だ」とか「ぞうきんが必要な社会は何かがおかしい」とか言っていても意味がない。とにかくぞうきんでふくことが必要だ。

テーブルにお茶がぶちまけてある世界より、茶碗にお茶が入っている世界の方が望ましいとは誰でも考える。しかし、一度ぶちまけられたお茶は戻ることはないし、戻すことでなく「ぞうきん」、つまり以前は全く不要だった別のアプローチが必要になる。

終身雇用も土地神話も親や先生の権威も元に戻ることはないし、インターネットのない世界にも戻れないし、グヌーテラのない世界にも戻れない。今と昔とどちらが良いのか考えることは無駄ではないと思うけど、ぞうきんを茶碗の上で絞ってでも茶碗の中にお茶がある世界に戻そうというような議論をする人が多すぎる。確かにテーブルの上にお茶がなく茶碗の中にお茶があるけど、そのお茶を彼らは飲むのだろうか?