「どこが違うのか」について合意する努力によって信頼関係を再構築する

美味しんぼを巡る騒ぎは、日本における、社会と科学者コミュニティの根深い相互不信の関係を示していると思うが、「対立点の合意」という方向でそれを再構築できないだろうか。

ある科学者が「福島は安全だ」と言い、別の科学者が「福島は危険だ」と言っている。科学者が人によって違うことを言うのは異常事態であって、どちらかが嘘をついている。

そういう見方になってしまうのは、「科学とは一意の真理を確定するブラックボックスであって、重要なのは結論である」というような科学観が背景にあって、これが問題なのだと思う。「意見が一致しないのは何かがおかしい」と考えると、陰謀論や極論に走ったり、科学者の意見を全て政治的な発言とみなしたりして、議論が拡散してしまう。

そうではなくて、むしろ意見が一致するのが例外で、科学者同士は意見が合わないのが平常運転であるとみなすべきだと思う。

重要なのは、そこでどういう対話が行なわれているかだ。その対話の内容が科学的であるかそうでないのかは、ほぼ客観的に判断できる。世の中には、放射能に限らず人々の意見が一致しないことはたくさんあって、その時、どう決着をつけるのかの方法論もたくさんある。その中の特に優れた方法論の一つが科学だ。

その「方法論としての科学」の第一の公理は「絶対的で不変の真理は存在しない。しかし、一歩づつ真理に近づく方法はある」ということだ。それが優れているのは、呉越同舟で意見が違う人同士でも相手の研究を参考にして自分の研究を進めることができるからだ。

この「方法論としての科学」に絶対的な信頼を置いていて、これをベースに政策的な決定が行なわれるべきだと考える人は多いと思う。ただ、そういう人の本音といわゆる原発村」の主張は一致しない所も多々ある。

美味しんぼの人やいわゆる放射脳」の人が暴走しがちなのは、「科学的方法論」に忠実な人と「原発村」のような「(ローカルな)科学者コミュニティ」に忠実な人の区別ができてなくて、その結果、中立的な立場で科学的素養のある人のアドバイスを、全部「御用学者」として排除してしまうからだと思う。だから、両者の違いを見えるようにすることが重要だ。

私は、「"五重の壁"で封じこめるから原発は安全」という表現には、深い意味があったと感じている。つまり、3.11以前には「放射能が飛び出しても大丈夫」という言い方をした人はいなくて「絶対に飛び出さないから大丈夫」と言っていた。「五重の壁」を強調するということは、暗に「もし飛び出しちゃったら大変!」と認めていたと解釈すべきだと思う。

今観測されている放射線量や検査体制から見て、福島は安全だと思うが、それを信頼してもらうには、「たまたま今回の放出量と放出時の風向きの結果として、今回は福島は安全であったが、次もそうなる保証は何もない」と言うべきだ。おそらく、「科学的方法論」に忠実な人は大多数が同じ意見になると思う。

原発村は「福島も安全で(これからの)原発も安全」と言っている。問題は、そういう原発村と「(本物の)科学者コミュニティ」の違いを「放射脳」の人に理解してもらうことだ。
あるいは「福島(のレベルの低線量被曝)が危険」という異論と「(これからの)原発が危険」という異論は、科学的方法論から見て相当受け止められ方が違う、ということ。

もし、科学者コミュニティに対して、白か黒かの最終的な結論を要求すると、どうしても厳密な科学的方法論にはなじまない所があるので、政治的な恣意性が入りこみやすく、どちらも安全という答になってしまう。

だから、「科学者というものは結論は共有しないけど方法論は共有している」つまり「意見が一致しないけど喧嘩のしかたや決着のつけかたはだいたい同じことを考えてる」という前提で、「ここがこういうふうに対立している」という「論点のリスト」を作って、それに全員がサインする、ということを求めたらどうだろうか。

原発は危険」ということが論点だということに合意する科学者は、「福島が危険」という異論を論点とすることに合意する科学者より、はるかに多いはずだ。

科学者コミュニティが社会に提供すべきものは、一意の結論ではなくて、このような「合意された論点のリスト」とその解説ではないかと思う。

そして、その「合意された対立点」に対して、主観に基づいて意思決定をするのは政治家の仕事で、有権者はその主観を評価する。ただ、政治家と有権者がそれをするには、専門家による客観的で異論のない「論点のリスト」が必要で、それを作る責任は科学者コミュニティにあるし、科学というものはそれを可能にする力があると私は考えている。

科学は、価値判断と事実や法則の認定を切り離すことで客観性を得ている。だから、本来「科学的な政策決定」というのはあり得ない。どんな結論にも不確定性はあるし、価値判断の枠組みがなければ結論は出せない。だから、政治家がその責任を科学者に押しつけることはできないし、科学者は全ての結論が現状の枠組みの中での暫定的な結論であることを意識して発言すべきだ。「こういう枠組みで考えるとこういう結論になる」という断定はできても、「こういう枠組みで考えるべきだ」というのは主観的な判断で、本当はそれは科学的方法論の外側にある。

おそらく、「論点リスト」でも全ての科学者が合意することはないだろう。しかし、少なくとも「結論」で合意できる範囲より、「論点リスト」で合意できる範囲の方が大きいし、全体として有用な情報を提供できることは間違いない。そして、「どこが違うのかについて合意してそれが外部によく理解されるようにお互いが努力すること」というような意識的な呉越同舟の方法論は科学に限らず、あらゆる分野でこれから必要とされていくと思う。


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