あなたと相互依存している大きな「私」

この短いインタビューの中で、ダライ・ラマはビックリするようなことを言っている。「今、世の中の倫理が乱れているのは、宗教的伝統から切り離されてしまったからでしょうか?」という質問に対し「それは宗教には関係ない」とキッパリと言っているのだ。

Now, if we extend this logic of dependence further—from the family out to the community and society, to the national and international levels, and even to the economy and environment—then we can see how interconnected we are, how interdependent the world is. Given this reality, we cannot escape the necessity for care toward each other. This has nothing to do with religion. I'm not talking about God or Buddha. I'm talking about understanding and appreciating this highly complex and interdependent world. Then, even from the point of view of one's own personal survival and well-being, one can argue for an ethical system based on affection.

A young child's affection does not come through faith; it is naturally very strong. I think the mistake we make is that when we're grown up, we start to think we're independent. We think that in order to be successful we don't need others—except maybe to exploit them! This is the source of all sorts of problems, scandals, and corruption. But if we had more respect for other people's lives—a greater sense of concern and awareness—it would be a very different world. We have to introduce the reality of interdependence. Then people would discover that, according to that reality, affection and compassion are essential if anything is ever going to change.

今、もしこの依存の論理を延長したら、-- 家族からコミュニティや社会、そして、国家や国際的なレベルへ、経済や環境まで -- 私たちはどれだけお互いにつながっているか、世界がどれだけ相互依存しているかがわかるだろう。このリアリティの中で、お互いに相手をケアすることの必要性から逃げ出すことはできない。これは宗教とは関係ない。私は神やブッダの話をしているのではない。この、とても複雑で相互に依存した世界をちゃんと理解してそれを尊重しようと言っているのだ。そうすれば、個人の生存と幸福という観点からも、愛情に基いた倫理体系について論じることができる

子供の愛情は信仰から来ているものではなく、子供はもともと自然に強い愛情を持っているものだ。成長するにつれて、自分たちは自立していると考えてしまうのだが、それが勘違いなのだ。私たちは、成功する為には他人はいない、ただ利用すればいと考える。しかし、もし、他の人たちの人生にもっと敬意を持ったら、気にかけて意識するようになったら、世界は随分違ってくるだろう。私たちは、相互依存というリアリティにもっと触れなくてはいけない。そのリアリティに従えば、何かを変えるとしたら、まず愛情と慈悲が最も重要だということに人々は気がつくだろう。

これを読んで、「相互依存というリアリティ( the reality of interdependence )」という言葉が非常に印象に残った。

学校のクラスでいじめがあった時や、鬱になって会社に来れない人がいた場合、私たちは、問題となる個人を特定してそれを排除することで問題を解決したような気になる。しかし、たいていの場合、それで問題は解決せず、もっと深刻な形で再発する。

常に一緒にいる人たちは、私たちが思うより強く相互に依存していて、苦しんでいるのは、そこにいる私たち全体なのだ。むしろ、「クラスそのものが痛みを感じている」「会社そのものが痛みを感じている」と表現した方がいいと思う。

こういう時に、私たちは、集団を一つの意識としてとらえる言い方を比喩と見なして、リアリティは独立した個人の方にあると考える。素朴な直感は、「私は私であって他の誰かではない」と教える。

しかし、実は、私たちそれぞれが、「独立した個人としての私」と同時に、「相互依存としての私」を体験しているのだと思う。

私たちの社会は、そういう「相互依存というリアリティ( the reality of interdependence )」を適切に表現する言葉を持っていない。言葉にできないから、それが無いもののように感じて、リアリティは「独立した個人」にあると思う。個人は独立しているのだから、問題は誰か特定の個人が持っているもので、それは私ではないと考えてしまう。

だけど、クラスでいじめが起こっている時には、いじめている方も傍観している人たちも、同様に同じ痛みを体験しているのだ。その痛みに無感覚でないからこそ、その痛みは自分でないと主張したくて、いじめに加担したりあえて傍観したりする。

私たちは、現に今、自分の中で確かに起こっている「相互依存というリアリティ( the reality of interdependence )」を、無いものとしたくて、無理に、自分を社会から切り離して、自分だけが幸せになろうとする。そういう時、自分は「私」ではなく「それ」になってしまう。

「私」を「それ」として扱うから、自分が、婚活や就活の為の一枚のスペックシートだと思いこんでしまう。そのスペックをレベルアップして、適切なマッチングを行なえば、自分に良いことが起こると思ってしまう。

システムがうまく機能すれば、確かに、「それ」は幸せになるだろうが、そこに「私」はいなくて、「私」は幸せの中にいない。

「私」は、スペックシートの外で「相互依存というリアリティ( the reality of interdependence )」を呆然と体験しているが、それを表現する術を持たない。

自分を集団の中に埋没させることには、多くの危険がある。だから、個人というものを唯一のリアリティとして認め、それを強調する社会を私たちは作りあげてきた。確かに、個人というものは存在するが、それは天動説のようなものだ。

地面は平らで固定されていると思いこんでいても、日常生活では何の問題もないし、ビルだって橋だって道路だって、そう思いこんだまま作ることはできる。そして、天動説は素朴な直感に合致している。

しかし、問題のスケールが大きくなると、天動説では対応できないものが出て来る。素朴な直感を捨てて「地球は丸くて動いている」という本当のリアリティを受け入れる必要が出てくる。

「私は本当に素朴な直感が教える通りの個人としての私なのか」という疑問は、これまで普通の人は持つ必要が無かった。だけど、それを本当の意味で保証してくれる人は、実は誰もいないのだ。

科学は、「私」を「それ」として扱った時には、「それ」がどういう構成要素と相互作用でできているかを教えてくれる。科学の領域で、「それ」としての「私」の像は、地球の見方と同様に進歩している。「それ」としての「私」について、勉強すれば、昔よりはるかにたくさんのことを知ることができる。

しかし、その相互作用するシステムの中のどの部分を、私は「私」として体験しているのか、体験すべきなのか、ということは科学は教えてくれない。別の実践が必要だ。そして、それを深く追求した人は、ダライ・ラマのように「相互依存というリアリティ( the reality of interdependence )」を見つけたと言う。自分がそれを体験していると言い、同時に、あなたも同じようにそれを体験していると言う。

私は、個人としての私が適切に機能する為には、相互依存としての私をもっと体験することが必要だと思う。個人としての「小さな私」と、相互作用としての「大きな私」は車の両輪で、両方あってどちらも正しく機能するものだ。どちらの体験も、もっともっと大事にすべきだと思う。