「編集方針」というコンテンツにかかる圧力

オーマイニュースへの市民記者からの投稿のうち、編集部により却下された記事を載せるという趣旨のサイトである。

当サイト(サイト運営側)は、オーマイニュースに掲載されなかった記事を原則そのまま載せるだけ(各記事への編集は、原則行わない)であり、掲載記事の信憑性を確かめるためのウラ取り等の取材は一切行いませんので記事内に登場する個人名や団体名などの扱いは慎重(実名部分を伏せるなど)にお願いします。

ここにボツ原稿が集ると、本家とここを読み比べることで、オーマイニュースの編集方針が浮かびあがってくるという仕組みである。大変面白い試みであり成功を願うが、このサイトの成否は本家のオーマイニュース次第であろう。

Wikipedia の編集ポリシー」も同様に注目を集める定番コンテンツになりつつあるようだ。

これを一般化して考えると、「注目を集めるサイトの『編集方針』はそれ自体がコンテンツである」ということになるだろう。グーグル八分問題に関心が集まるのも、同様のメカニズムではないかと思う。

そして、「編集方針」がアテンションを集めるのは、大多数のユーザとその「編集方針」が乖離している場合であり、その乖離は、潜在的にまだ生まれぬ競合サイトへのアテンションでもある。「思想的偏向がないオーマイニュース」「より開かれたWikipedia」「八分がない検索エンジン」が常に出番をうかがっている。元のサイトが乖離を持ったままアテンションを集めたら、乖離の無い同種のサイトが立ち上がり、アテンションを奪い取る可能性が高くなる。

しかし、もしそうなった時、「思想的偏向がないオーマイニュース」「より開かれたWikipedia」「八分がない検索エンジン」の編集方針には、アテンションは集まらないだろう。それらは編集方針ではなく、編集結果のみで注目を集めることになる。

  1. 特定の編集方針によってあるサイトが注目を集める
  2. 編集方針にアテンションが集まる
  3. 編集方針の中の偏向やユーザニーズからの乖離が明確になる
  4. その「編集方針」を「正した」別のサイトがトラフィックを奪う

アテンションエコノミーにおいては、このような形で「編集方針」の「透明性」を高くする圧力が定常的に存在している。実際にはWikipediaやグーグルに代わるサイトは簡単には作れないが、その場合は、この「圧力」が「編集方針」に対する一定のアテンションを集め続けることになる。Wikipediaやグーグルの独善性が極端に高くなると、この「圧力」も高まり、それによって競合サイトを立ち上げることの困難が少しづつ減少していく。

これだけの大量の良質な記事を既に保有しているWikipediaは、一見さんの編集を多少制限するのはやむを得ないと私は考えるが、同じように考える人が多ければ、Wikipediaの「編集方針」が集めるアテンションは限られたものになるだろう。ただし、そこがあまりにも閉じたサークル内の運営になると、そこに膨大なアテンションが集まることになる。「編集方針」への潜在的なアテンションが、「圧力」をかけているというのは、そういう意味である。

2ちゃんねるDiggはてなブックマークのように、「編集方針」が存在しない(「編集方針」の透明性、公開性が高い)サイトは、最初からこの「圧力」が低い平衡点で、サイトを稼働させていると見るべきではないだろうか。

そして、これは、政治的、社会的な法則というより経済的な現象である。

アテンションは、その対象の「編集方針」へのアテンションを集める。「有名サイトの裏側」という記事を書けば、儲かるのだ。だから、思想的立場を問わず注目を集めるサイトには経済的動機で「ノラナイニュース」をやる価値がある。むしろ、経営的観点から言えば「ノラナイニュース」はオーマイニュースが自営した方がいいだろう。市民記者集団というコンテンツの潜在的価値を、具体的なアテンションとして100%活用したければ、表のオーマイニュースと裏のノラナイニュースを共に自営すべきである。自営したら、外部の「ノラナイニュース」はたちうちできない。ただし、編集方針等からノラナイニュースにも載せられないニュースがあると、「ノラナイニュースにもノラナイニュース」が立ち上がり、アテンションを奪われる可能性がある。

このように、アテンションエコノミーにおいては、「編集方針」に対する潜在的な圧力が存在する。それは、透明度、公開性、ユーザと乖離しないこと、を要求する圧力である。

もちろん、これはアテンションエコノミーの望ましい特性であると私は考えるが、経済的現象が政治的言説への圧力を生むことには、若干の懸念があることも確かだ。