変化に対応できる「小さな司法」「小さな裁判所」を望む

警察のエライ人とかは頭の固い人が多いのか『変化を無理矢理押さえ込むこと』によって何か対策が出来ると思っているようです。しかし、何事についても『変化に対応するには、それを上回る積極的な変化』以外では対処できないと思います。

私はセキュリティは退却戦というエントリー書いたことがあるが、司法も退却戦だと思う。

司法とは人を裁くことであって、背景として国民全体の倫理的な規範に対する合意が必要とされる。13Hz!のわくたまさんは、規範と技術の関連が流動化していることを指摘されているのだと思うが、規範そのものも流動化している。

金子さんやホリエモンの逮捕は、副作用として社会全体に大きな負担を強いている。彼らの有罪に納得できる人でも、自分たちの負担が明らかになった時に、それと引きかえになお逮捕すべきだったと思う人は少ないだろう。

全員一致で裁判所の判決に納得してもらえることは、これからますます少なくなっていく。規範意識が多様化する中で、司法は、どれだけうまくやっても、自分たちの支持基盤を日々失ないながら業務を遂行していかなくてはならない。まさに退却戦である。

検察が印象操作に必死なのは煽り耐性が低いからかもに書いたように、意図的なリークで世論を操作して支持を得ようとすることは、かえって国民の中の価値観の対立を煽ることになる(そう言えば、暴力団との関係はどうなったんだ?)。退却戦の戦い方としては、最悪だと思う。

そういう方向ではなくて、司法は、むしろ自分たちの役割を限定して行くべきだと思う。いかに価値観が多様化しても(今のところは)殺人や強盗ならば、それをきっちり裁くことには大半の人が納得する。そういうふうに裁くべき範囲を限定して、そこできちっと仕事をしていくことが必要なのではないだろうか。

つまり、「小さな政府」と同様の「小さな司法」「小さな裁判所」である。もちろん、これは「官から民へ」というわけにはいかないので、公正取引委員会証券取引等監視委員会等の司法の外にある機関に「裁く」機能を分散していくことになるだろう。

紛争処理の多元化と正しさという利権に書いたように、これはこれで新しい利権を生む危険性も否定できないが、司法はこのような司法的機関が正しく機能しているかどうかチェックし裁く機能、つまり「メタ司法」の機能に自らの責務の重点を置くべきではないだろうか。