「自虐」と「他虐」の「虐」

「自虐史観」という言葉自体の検証も必要ではないでしょうか?というコメントをいただいて、私にとって、「自虐」とは何なのか、何が問題なのかを考えてみました。

私が問題だと思うのは、評価基準を対象によって恣意的に変えることです。例えば、日本が攻めれば「侵略」で、日本が攻められれば「遠征」と言葉使いを変えるのは、先に自分の言いたいことがあって、それに事実を後付けしているように思えます。

これは、昨日の自由論三態で引用した、ペティットという人の自由論につながる話のような気もします。「潜在的に何をするかわからない意志や潜在的にどうなるか予想もつかない他人の判断に」歴史を委ねることであって、その恣意性が次には自分の生活を左右するのではないか、という恐れがあります。

では「自虐史観」に批判的な人はどうかと言うと、そういう人の中にも一部、自国を見る時と他国を見る時で、判断基準を変えているように見える人もいます。それは、恣意的な判断基準を時間軸に適用するか、空間軸に適用するかの違いだけで、やはり同じものを感じます。

仮にそういう人を「他虐史観」と呼ぶとしたら、「自虐」にも「他虐」にも同様に「虐」があって、その「虐」が問題であるということになるかもしれません。

「祖国を特別視する」という判断基準を一定に適用するということはあり得ます。先日、竹村健一氏がテレビで「世界のほとんどの国で歴史教育では自分の国のいい面だけを見せている」と言っていましたが、この判断基準を自分にも他人にも一様に適用することは可能だと思います。

もし、そういうスタンスであれば、外国の人がそのような歴史観を持ち、それに添った教育をすることも、尊重するべきです。それができていれば、私にとっては納得できる歴史観です。

ただ、歴史に限らず、そういうフラットな世界観を持つことは、なかなか難しいことです。なぜかと言うと、「虐」は、心の中にある問題だからです。心の中にはたくさんの分裂があって、それを投影する対象を心は常に求めています。それは終わりの無い戦いです。自分が「フラットな価値観」を獲得したと思った瞬間に、「フラットでない価値観」を持った人を蔑視するという「虐」が始まるわけで、どこまで行っても、そのような「虐」を求める自分と対峙するということが完結するわけではないと思います。

そういう意味で、現在の私にとっては、朝日新聞に代表される「自虐史観」とその恣意性が、最も重大で現実的な課題に映ります。それについて書くことが、自分にとっては重要な意味を持つわけですが、自分が完璧にフラットだと思って取りあげているわけではなく、その中に必然的に含まれている私の「虐」を形にして見つけるためにやっています。