自由論三態カットアンドペースト

D's BLOG: Skinner on Republican Libertyからバーリンの二つの自由論


前者〔消極的自由の信奉者〕は権威を適切に規制しようと欲し、後者〔積極的自由の信奉者〕は権威を自分の手中に収めることを欲する。これは極めて重要な対立点である。それは、たんなる一つの概念についての二つの異なった解釈ではなく、人生の目的についての、二つの根本的に異なる、和解不可能な態度にほかならない

「権威を規制することが自由への道」派 VS 「正しい人が権威を持つことが自由への道」派ですか。

D's BLOG: Pettit on Republican Libertyからペティットの共和主義的自由論


法という公平な強制の制度----つまりは恣意的でない政治体制のことですが---は、人を不自由にはしないのです。むしろ、不自由とは、恣意的支配の影響下におかれること----つまり潜在的に何をするかわからない意志や潜在的にどうなるか予想もつかない他人の判断に人生を委ねられること----にこそ存するのです。自由とは、その類のあらゆる従属状態からの解放と、その類のあらゆる依存からの脱却を含みます。すなわち、自由が存在するためには、共同体の構成員の一人一人が、他人に恣意的に干渉する能力を誰一人持っていないことを皆で確認しながら、互いに対等に接する能力を持たなければならないのです

何をするか予想可能、推測可能な権力(明文化された法)は○。そうでない権力(例えば金正日のように恣意的なもの)が×。

D's BLOG: 波田陽区からバンジャマン・コンスタン


〔しかし〕今日のわれわれにとって、こうした満足感はもはや存在しない。個人は群衆の中に埋没し、自分の〔政治的〕影響力というものをほとんど実感することができない。個々人の意志が集団の意志に痕跡を残すことは決してないし、自分が何かに協力しているということを自分の目で確かめることが不可能になってしまっている。従って、われわれにとって政治的権利の行使は、古代人がそこに見出した喜びの、ごく一部しかもたらしてくれない。だが、他方、文明の進歩、時代の商業化の流れ、諸国民同士の交流は、個々の幸福追求の手段を無限に増加させ、多様化させることになった。


その結果、われわれは、古代人に比べると、遙かに強い愛着を自分の個人的独立に対して抱かずにはいられない。というのも、一方で古代人の場合、政治的権利のために個人的独立を犠牲にすることは、僅かな犠牲で多くのものを得ることになるが、他方、われわれ〔近代人〕の場合、同じことをすれば、僅かなものを得るために多くのものを手放すことになってしまうからである。


古代人の目的は、祖国(パトリ)を同じくする市民全員で社会的権力を共有することであり、このことを古代人は自由と呼んだ。〔これに対し〕近代人の目的は、安全に〔私的な独立の〕享受を確保することである。だからこそ近代人は、この〔個人的な独立の〕享受が制度的に保障されている状態を自由と呼ぶのである。

個人的独立が↑政治的権利↓が自由主義

個人的独立が↓政治的権利↑が共和主義。

個人的独立の価値が大きい現代は、共和主義には不利な時代だがそれでいいのか、という話か。

引用元は知らない人ばかりで、これら同士の関係もよくわからないが、どの文章も非常によくわかる気がするし、非常に身近な話でもあるように感じる。

こういうものを断片的に読むより、きちんと体系的に勉強した方が当然いいと思うが、全く知らないでいるよりは、(多少の誤解を含んでいても)そんなことを一生懸命考えていた人がいて、今もいることを知っておいた方がいいと思う。

そういう意味で、難しいけど大変ありがたいBLOGです。