モナーの著作人格権は場の管理者に -- 離脱可能な独裁権力
のまネコ問題2005年10月13日というひろゆき氏の意見表明は、歴史的に重要なものになると思います。
ちなみに、ネットの人たちの共同著作物である「電車男」の二次使用料に関しては、新潟県中越地震災害義捐金として、今年の前半だけで784万3500円の寄付をしています。
「電車男」という過去の事例を引いて、のまネコ問題をこれに添った線で決着させようというのは、単にこれが対AVEX社の問題でなく、共同著作物の扱いについて、慣習法的にひとつの規範を打ち立てようという意思を、暗に表明しているように思えます。
そういう観点から見ると、ここで提示されていることは、次の二点でしょう。
一般化すると次のようになると思います。
- 共同著作物の著作人格権はそれが生まれた場の管理者が(場の総意による信任を受けて)代行する
- 共同著作物の著作財産権は公のものに
私は、これがおおむね妥当な規範だと考えますが、注意すべき点、論議を呼びそうな点は、「代行する管理者」の意思が、どのように正統性を確保しているかということだと思います。
たとえば、モナーは2ちゃんねるでなくあめぞうという別の掲示板で生まれたという意見もあるようです。どの共同著作物が2ちゃんねるに属するか、その判断は実質的にはひろゆき氏が独断で行なうということになると思います。あるいは、モナー(や他のAAや「電車男」のようなスレのストーリー化)をどのように使用したら、それが2ちゃんねらの同一性保持権を冒したことになるか、そういう微妙な判断は、2ちゃんねるの掲示板の中の議論を受けてのことでしょうが、具体的なアクションとしては、やはりひろゆき氏が独自の判断で行なうことになります。
だから、代行者の正統性というものをどう保証するかが重要です。
私は「離脱可能性」という概念によって、このようなケースにおける「代行者の正統性」を判定し、その適否を見定めることができると考えています。
「離脱可能性」というのは、オープンソースの言葉で言えば「フォーク」という概念です。オープンソースのプロジェクトでは、その成果物(ソースプログラムやドキュメント)は、常に公開された状態で開発が進行します。そして、ライセンス的にも誰がそれを改変し再配布してもいい状態が保たれています。だから、もし、開発に参加しているメンバーが、そのプロジェクトの方針に不満がある場合には、その成果物一式を持って、別のプロジェクトを立ちあげることが、いつでも可能になっています。
もし、リーダーの方針が、プロジェクトに参加しているメンバーの信頼を得られない場合には、新しいプロジェクトに大半のメンバーが参加して、そちらで開発が継続することになります。
そういう「フォーク」がいつでも可能であることを「離脱可能性」と呼んで、これを新しい権力の正統性の判定基準に使うことを、私は提案したいと思います。
オープンソースプロジェクトは、定義上、全てがオープンですが、民主的であるとは限りません。むしろ、重大な決定事項では、参加者の総意よりはリーダーの独裁にゆだねられているケースが多いかもしれません。もちろん、問題が起きた場合に議論するメーリングリストのような場がありますが、そこで多数決等の形式的な手続きが決められているプロジェクトはほとんどないでしょう。
なぜ、そうなっているかと言えば、ソフトウエアの開発は複雑な作業で、個々の決定を単独で行なうことができないからです。多くの関連する規模の異なる問題を同時多発的に処理していくことが必要とされます。そして、その場合、基本方針が明確であり矛盾がないことが重要になります。これを合議で行なうより、リーダー個人やごく少数の気持ちの通じたコアチームが決定した方が、よいソフトウエアができるからです。
また、一方で、それが「離脱可能」であることによって、関係者の最大利益から大きくはずれたり、リーダーの個人的な都合に左右されたりしないことが保証されているからです。もし、恣意的な決定や、参加者の総意に添わない決定を行なえば、「フォーク」が起こり、そのリーダーは不信任されてしまいます。
2ちゃんねるはあらゆる意味で「離脱可能性」が高いものですから、「離脱可能性」の高さによって、管理者のひろゆき氏は、その総意を代行する権利、正統性を獲得しているとみなせる、と私は考えます。もし、違うと思ったら、誰でも別の掲示板を作ることができます。もし、運営側が陰で不当な利益を得ていると思ったら、誰でも同じことに挑戦して、同じだけ稼ぐことができます。
また、2ちゃんねるの運営には技術的な複雑性は(あまり)ないと思いますが、さまざまなプレッシャーに対する戦争という側面があり、戦争の運営は、非常に技術的な要素がたくさんあります。
上記ののまネコ問題に関する声明も、AVEX社との戦争の中での方針の表明であり、相手に対する降伏条件、落とし所の提示でもあります。非常に強行に自分の言い分を通している一方で、完全に相手を追いつめないで、包囲網の中に意図的に穴をあけて、そこに誘導しているようにも見えます。
AVEX社から見ると、のまネコに対する投資が全部パーになるわけですが、ある意味サッパリ手を引ける選択肢が提示されているわけです。損害は大きいけど「損切り」はできるということです。そういう意味では、かなり一方的に要求を通しつつも、妥協的な意味もあります。
また、統制の取れない味方を率いる場合に重要なことは、方針が二転三転しないことです。特に、「右へ行け」と言った後に「左に行け」という言うと、味方通しがぶつかり合い、混乱が大きくなります。だから、舵を切る場合には、決して戻すすことがないように、少しづつ切らなくてはなりません。
今回の件では、ひろゆき氏は控え目ながらも要所要所で方向を示していますが、個々の発言をよく見ると、常に行き過ぎないように工夫されたことを言っています。言いすぎて戻るなら言い足りない方がいい、という点で一貫しているように感じます。だから、かなりいろいろな意見がある2ちゃんねらが、いったんコトが起こればいつでも集団として力を発揮できる状態、最低限のまとまりを継続しているように思えます。
そのへんの喧嘩の技術において優れていることが、このような場の管理者に求められるひとつの資質でもあると思います。
また、外部に見えない部分でも、いろいろなプレッシャーや駆け引きがあるのかもしれません。オープンソースプロジェクトにおいて、「フォーク」しようとする人は、その人のソフトウエアに関する技術力を試されることになるわけですが、2ちゃんねるを「フォーク」する場合には、プレッシャーに対する耐性や戦争の技術力が評価されることになるでしょう。
そういう意味で、掲示板の運営が戦争という技術的な要素を含む以上は、ソフトウエアの開発プロジェクトと同様、合意より独裁の方が適する部分が多いと思います。
だから、「離脱可能な独裁権力は場の成員から自動的に信任を受けているとみなす」という考え方が、のぞましいと私は思います。
また、これが場の内部から信任を受けているとして、社会全体から信任を受けているわけではありません。それについては、どう考えるべきでしょうか。私は、それについては、複数の「離脱可能な独裁権力」が競合する状況が望ましいと思います。
現代社会は、さまざまな並立できない価値観を持つサブシステムに分化しています。そして、個々のサブシステムは、(戦争やソフトウエア開発のような)特有の技術的な要素を含みます。だから、単純な民主制では、複雑にからみあって並立するサブシステムを維持することはできません。
複数の「離脱可能な独裁権力」が人集め競争を行なって、その勢力を競うことで、最終的な全体の調和が保たれると思います。「離脱可能性」によって自動的に、社会の中で(成員の数に応じた)一定の権力を付与される、という新しい規範が作られるべきだと思います。複数の「離脱可能な独裁権力」が競合することは、さまざまな葛藤を引き起こしますが、他の手段と比較して、歪みが蓄積してカタストロフに至る可能性が最も少ない、最も安全な方法だと思います。
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