「リキッド化」の「面白さ、楽しさ」を共有する為の「闇」教育

その「面白さ、楽しさ」を共有できないって、それこそ格差ですよね(笑)。収入より、そういう人生に求める質の方が、今、格差があるんじゃないでしょうか。

高城剛氏へのインタビューにおける、匿名のインタビュアー氏の発言である。

高城剛氏の発言も面白かったけど、この発言が一番印象に残った。

高城剛氏自身の発言では、フリードマンの「フラット化」に対して「リキッド化」という言葉をぶつけている所が面白かった。両者の言っていることは高城氏が言うほどの違いは無いと私は思う。違いは、喩えて言えば、海をどう描写するかという問題で、ちょっと高い所から見れば海面はフラットだけど、海面に近づいて見れば、さまざまな表情の波がうごめいている。その視点の違いではないか。

インターネットが典型的だけれど、確かにすべてがフラット=差異がない世界になったように見える。けれど、これからの実社会は、よく見るとキレイな部分や汚い部分が偏在していてて、部分的に固まったり、広がったりしながら常にカタチを変えていくようなイメージ。水をバシャーンってこぼした状態に似ていると思う

でも言葉としては「リキッド化」の方が断然いい。経済は「フラット化」するけど、文化は「リキッド化」する。重要なのは文化だということには同感。

日本的な文化の特徴というのはすべてが分断されていること。大体、どこの国も地域も歴史の流れの中で関連性を残して文化が変化していくのに、日本は戦争や経済発展、世代交代などを機会に、それまでと全く異質なものが突然変異的に生まれてくる。それが良いところでもあるんだけれど、あまりにもまとまりがない。これをまとめることを“スタイル化=スタイリング”と僕は呼んでます。つまり、突然湧いてきたものと歴史的なもの、時代やジャンルがバラバラで分断されているものをまとめる力がスタイリング。このスタイリングというワザを国民全員が身につけることで、新しい日本の文化として、そしてビジネスとして世界に発信していく。それがこれからの日本の姿であり、そうなって欲しいと僕は思うんです。というか、それしか本当にない。

分断されていることを俊敏性につなげることができれば、「リキッド化」時代を楽に泳いでいける。でも、前提として「まとめる力」は確かに必要ですね。

面白く、スピード感や携帯感があって、さらにお得でなくてはならない世の中だからね。だから、僕の新刊も660円で出してます。ハードカバーで、しかも上巻下巻のトフラーもフリードマンも、時代にあってないと僕は思うんです。

「僕の本は新書だからハードカバーフリードマンやトフラーより良い」という主張は、自分的にはRailsとYouTubeは「自転車創業」だで言っている「スピード感」に通じる話。Railsには文化現象としての面白さと新しさがあると思う。DHHの RailsConf 2006 での基調講演は、独特のノリがある。

それで冒頭の発言に戻るけど、こういう状況を「面白がる」能力には確かに大きな格差があって、それは拡大しているように見える。

それを経済学者が無理に測定すると「世界的に拡大する高学歴者と低学歴者の賃金格差」という問題に見えてくるのではないだろうか。

JMMのNo.386における、「社会における「理想の」セイフティネットとはどういうものなのでしょうか」という質問に対する真壁昭夫氏の回答

多くの先進国では、付加価値の高い職業に対する成功報酬部分が多くなる傾向があるといわれています。そうした状況下で、画一的なメルクマールで、社会の状況を上手く表現することは困難な気がします。OECDのレポートを見ても、セグメンテーションによって所得格差が拡大しているのは、わが国だけではありません。わが国だけが、格差が拡大して、貧困化が進んでいるとの認識には、あまり適切な理解ではないと考えます。

経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)

大竹文雄氏も、経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書) という著書で、次のようにこの問題を取り上げている。

アメリカでは、低賃金労働者の実質賃金は長期間低下し、高賃金労働者の実質賃金が上昇するという賃金格差の拡大が生じた。この格差拡大は80年代から90年代に顕著に現れた。なかでも、高学歴者と低学歴者の賃金格差の拡大が発生した(P198)。

そして、この要因として、いくつかの実証データによる考察の結果、次の二点を重視している。

  1. パソコンを使ってワープロやスレッドシートをによる作業を行なうことが、人々の生産性を高めているという可能性がある
  2. IT革命は判断能力・解析能力のところでボトルネックを発生させるために、そのような能力をもった人間に対する需要を増加させるのである

これに対する対策として、大竹氏は次のように提言されている。

IT革命に対応するたえに、単なるパソコンの操作を身につけさせようとする政策を行なうことも賃金格差の縮小にはつながらない。IT技術の習得は高学歴者にとっては、賃金引き上げ要因となるが、低学歴者にとっては賃金の引き上げをもたらさない。ITと補完的な判断能力、分析能力の習得が必要なのである(P201)。

「ITと補完的な判断能力、分析能力」とは、まさに「リキッド化」を面白がりその面白さを共有する力であって、それは、賃金格差として実証できる以上に人生の質全体に大きな格差となっているのではないだろうか。

ただ、高城氏が「ITは終わった」と言い、大竹氏が「ITと補完的」と言うように、そのような人間の能力は、ITとかけはなれた所で醸成される。

当然といえばそうかもしれませんが、「速さ」「応答速度」までもが一つの「コミュニケーション能力」にされています。何事においても行動が「速い」人の中には自分と同じ「速さ」でなければ躊躇・迷い・鈍感などと見なし、ダメ人間のレッテル貼りをする人がいますね。

自分達の生活を考えた時、この「闇」に対する教育が決定的に不足していると思う。これは今の社会問題が抱える、1つの収束点かもしれない。

それには、こういうセンスが重要だと思う。

脳内に、クロックを停止する個人的な「闇」の場所を持つことが必要なのだ。