本能と学習としつけ

子供をレストランや電車で放置したら、ワーワー言って走り回ります。これは本能です。だから、しつけて席にすわらせる。しつけができて、おとなしく教室で席にすわってられるようになって学習が始まります。

私は、この図式には何の異論もありません。

おかしいと思うのは、こういう暴言を本能ととらえること。これは、学習の結果です。悪口や暴言は学習しないとできません。語彙やレトリックを覚えないと、悪いことは言えません。

この誤解のために、本能をしつけるのではなくて、学習の結果に対して「しつけ」の方法論で対処しようとする。しかし、「しつけ」というのは本能に対応した方法論なので、あまり効果が出ない。その結果「しつけ」が過剰になります。しつけてもしつけてもおとなしくならないから、もっとしつける。しつけの焦点が、「本能」でなく「学習の結果」に向いてしまうので、かんじんな「本能」に対するしつけもおろそかになってしまいます。

間違った学習は、新しい学習でしかキャンセルできません。学習には自発性が必要で、自発性を引き出すのは対話です。しつけとは全く違ったやり方が必要です。

私は強制を伴なったしつけが不要だとか無意味だとか言っているのではありません。ただ、その対象がズレていると言いたい。また、自発性が抑圧されているとは思いますが、それは「しつけ」の場面においてのことではなくて、「学習」には自発性が必要だと言いたい。

一番言いたいのは、子供が環境から「学習」していることを見過しているのではないか、ということ。子供のやることで「本能」でないものは、全て我々がやっていることを反映していると見るべきだと思う。

社会がこれを否認していることが問題であって、その否認の犠牲になっているのが、子供とその親だと思います。

  • 子供は自分が学習したことを「しつけ」の方法論で否定されている
  • 子供が過剰に無意味に「しつけ」られている
  • 一方で、子供が「本能」を「しつけ」られてないので、そのことが自分自身や他人を傷つける
  • 親は、子供の「学習」の結果の責任を取らされる(「学習」の責任は環境全体にあって、親もその一部ではあるので全く無責任とは言えないが、全てをコントロールできるものではない)

何で否認するかと言うと、一番見たくないポイントを突いてくるから。子供は、最初からそこを狙ってくるわけではないが、他のことには何らかのリアクション(対話)が帰ってくるのでそれで満足して、一応、学習が完結する。微妙に大人が嘘を言ったりスルーしたりすると、何かが完結しなくてそこにこだわる。その結果、目につく学習の成果は、大人から見ると一番見たくないポイントだけが残ることになって、それが「学習」であることを否認して「本能」であると無理に信じこむ。